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Maria Magdalene

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(本論)
 気づけば瞼の裏に光を感じた。ゆったりと押し広げた目蓋の紗を失って、灰色がかった網膜に差す光線の強さにしばし驚いて、二三度瞬いた。目が慣れてきたが、身体を動かすのが億劫で、数刻の間じっとしていると昨夜を想い起した。そして結局靴はどうしたのだっけという考えに至る。とりあえず身体を起こし、その際無意識に隣を探っていたが、仮眠用の固いマットは冷たかった。現と夢が溶けあって判然としない感覚にしばし困惑する。
 結局、彼の小さな創造物はいまだ完成していなかった。彼女がそれを履いて、行ってしまっていないから。其れにしても記憶が曖昧で、消え入りそうなその線をなんとか辿ろうとするが、叶わなかった。断片的に想い出すのは濡れた毛先、不安げに揺れた目、柔らかな腿、それから胸のあたりの。
 久々の睡眠だった。身体は重く、明らかにここ数日の徹夜続きが影響している。それで雑になるような仕事はしていないが、流石に限界であったし、あるいは、これ以上は祖父が許さないだろう。
「何だ、まだ居たのか」
 工房の電気がつき、それまでの薄暗な視界が反転した。見ると祖父が扉の傍にいた。
「社長」
 まだ仕事をしていたのか、と祖父は眉を顰め、その咎めるような視線を受けて、彼は少し苦笑しながら、もう寝ます、と言った。
「ちょうど今日は休みですから、おれは」
「そうしろ、隈ができている。仕事に支障をきたせば、依頼は即取り上げるからな」
 それにはいはい、と彼は返答したが、その態度を彼の祖父は別段気にしなかった。祖父は孫の仕事に対する姿勢の実直を重々承知していた。彼は去り際に、上がっているものはチェックをお願いします、と言った。
 彼は工房を出て、隣接する彼の家に帰った。
 母がキッチンで朝食の用意をしていて、そのにおいが嗅覚をくすぐった。父がその食卓のそばでネクタイを締めながら身支度をしているのを見た。彼がおざなりな挨拶をしながら玄関のほうから居間を通っていくのをみて、ふたりは彼の昨夜帰宅していなかったことを認めたのだった。
 熱い湯は彼に心地よかった。その適度な刺激によって、昨夜からの残像と、それに伴う言いようのない感情が洗い流されるようで彼を安堵で満たした。彼の頸や鎖骨、腕の筋肉、胸から腰へと熱は流れた。あるいはそれはある種の逃避かもしれなかったが、疲労か拒絶か、彼はそのことに思い至らなかった。彼の何もかもが熱で濡れた。すでに浴室は熱による白く温かな水蒸気で充満していたが、湯を止めると彼の肌の水滴に空気が触れ、ひやりとした微かな感覚が襲う、同時に自分のものではない体温を思い出す。脱衣所に出て、白のバスタオルを手に取り、身体を拭いた。拭いた先から、水を吸い重くなった髪から水滴が、肩を伝って腰に、あるいは胸を伝って臍へと滴り落ちていった。それらをなんとなく見遣りながら、彼はその脳裏に存在する断片に矛盾する、なめらかな感触を確かに覚えていることに気がついた。それは女の肌であった。……
 彼は靴をつくっていて、それは彼の一部だった。祖父が靴職人として店を構えていたので、幼い頃からその工房は彼の遊び場だった。彼はいつだって工房に居て、静謐で神聖な彼の居場所であった。であるから、彼の家の部屋は、彼が就寝するためだけに寝台が置かれた場所である。キッチンの母に、寝る、とだけ言葉少なに伝えて、彼は二階の彼の部屋の寝台にその身体を横たえた。背にある久方ぶりの弾力に溜息が洩れた。考えていたより疲労が溜まっていたらしい、すぐさま眠気が襲う。一瞬思い描いたのは美しい曲線だったが、そのまま思考を手放した。


*


 あとほんの仕上げで完成だったが、彼女はそれを拒否したのだった。彼の手指の仕事はきわめて完璧なものだったので、それが彼女に言いようのない嫉妬を与えていたのだった。それでも、彼女は彼の仕事を認めていた。それだからこそ、彼女はいつだって彼を赦せないのである。
 彼女が彼の頬に触れても彼はちらりとも反応せず、疲労のためとはいえ、彼女はそれがなんとなく気に入らなかった。けれど本当はそれでよかったと思う。いま目覚めても、彼女は彼に言う言葉を持たないのだった。彼女は彼に触れた、彼の手を撫ぜた。彼女は彼の手を見て、自分の手と比べて想うのだ、あア、彼女はこの手が好きだった。この骨の形の目立った、肉の皮の薄い手が。そして小さな彼女の脚のためだけに創りだされる靴のなんと憎らしいことだろう! 撫ぜた肌には体温があり、それはほんの少し冷めていて、彼女の手にしっくりと心地よくて思わず笑みがこぼれた。彼女はつくづくと彼を眺める。薄い瞼の微かな揺らぎにさえ、彼女は苛立った。柔らかな癖毛はあいかわらず無造作に伸びて、普段は彼の容貌の全体を隠しているのが、ほんの少し露わになっている。彼女はその日に焼けていない肌やすっと通った鼻梁を目でなぞる。それに反応したかのように睫毛が揺れ、ゆったりとした目覚めののちに彼は彼女を見とめた。彼の目に映った彼女は一瞬困ったように眉を寄せていた。
「来てたのか」
「まだ寝てていいのよ」
 彼の言葉に優しく返して、彼女は彼の前髪を弄りながら丁寧によけてやった。彼はそれを静かに受け入れていた。彼の眠たげな一重が露わになって、瞬きののちに閉じたが、彼女はその間も彼の髪の濡れて冷えたのを弄っていたが彼は何も言わないのだった。伸びたわ、と彼女の声音は静かで柔らかく穏やかだった。その色づいた小さな唇から発せられる音は彼を不思議に安堵させていた。切らないの、と彼女は問うた。彼はそれに応えなかった、彼女はそれを咎めることもなかった。
 梳くゆるゆるとした彼女の円やかな指の動きは、彼の惰眠をまたゆるゆると誘ったので、そのまま身を委ねる。
 だから、彼が再び目を開けたのはその一時間後だったが、彼女は相も変わらず彼の傍に居た。
作品名:Maria Magdalene 作家名:藤中ふみ