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Maria Magdalene

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―蠱惑と清廉との境界に関する或る側面での考察―

(序論)
 あの、掌手、に囚われていると思うと悔しい、逃げることが叶わぬから余計に腹が立つ。あの男は、と思う。呆けている癖して実のところ心底ずるい、そしてその無意識のずるさに幾度うんざりしたことだろう。大学のオープンスペースで課題に向き合いながら彼女は唐突にそんなことを考えた。
 彼と出会ったのはいつだったか、気づいたら互いに知っていて家族ぐるみをしているというような幼馴染の間柄で、正確な瞬間を記憶していることはない。だが、彼女が物心つく以前から記憶しているものは、彼の変わらぬ涼しく艶やかな黒眼とその温かな手だ。それは彼女の感覚に常に訴えていて、もう記憶というよりも彼女を構築するそのものとして身に付いている所有物である。それが何時の間にやら強く感ぜられるようになった。そしてその所有物こそが自分を成り立たせ自分を捕えていると気づいている。
 面白くないと彼女は思う、他の男と出掛けてもちっとも面白くない、それは所謂彼に対する当てつけとしての役割を持っていたとしても、当の本人はさして関心の無い風で、彼女を愉快にさせなかった。あの目を瞠らせたいのに、彼女はその手段を未だ見つけることができない。
 課題はさして進まなかった。仕様がないので、もう止めることにしよう、暫くして買い物に行こうと考える。大学を出た。
 雲は灰色で日中だというのに辺りは薄暗かった。彼に文句を言いつつそれが可愛らしい我儘で或る種の甘えになっていたあの頃、あの時、大人であると自負していながら、自分が無知で世間知らずの小娘であるというおぼろげな認識を一瞬にして明確に提示されてしまった時も、このような天候だった。彼はある時期から、凡庸だった雰囲気を無造作な髪でさらに凡庸にさせた。彼女はそれが気に入らない反面で、どこか嬉しく思っていたのだ、自分こそが彼の姿、彼の性質を正確に把握し知っていると、彼がいよいよ凡庸になることで世間から彼は隠れて、彼を知るものは彼女唯一となる……、彼にする知識を彼女はそれまで誇っていた。
 美しい女の人と一緒にいた、彼を見たとき、彼女の中で何かが崩壊した。嗚呼、何ということ、自分がひどく子どもであると突きつけられて、彼女は惨めの極致だった。けれどもう遅かった、逃れることができないところまで彼女は来ていた。そんなことを考えながら、同時にそのような思考を霧散するためにあらゆる美しい物に目を移す。服や雑貨、ピアスや雑誌、だが靴だけは見なかった。靴は、彼女にとって苦痛を与え、惨めさと屈辱を助長する、神聖なものだった。
 彼は靴を造っていた。腕と指の、あの温かな手から生まれるもの。それは彼女の爪先を包み込んでいる。ある時期から全ての靴は、彼女の足元を装飾するのは彼の創造物だった。美しさが淘汰された創造物、そして彼女も美しい。長く柔らかな髪が頬から顎、肩、腕を縁取り、腰から脚にかけてその曲線はなめらかだった、彼女はそれを自覚してはいなかったが。
 カフェに入り、紅茶を頼んだ。買い物はもう充分、満足ではないけれど、不可解な気分は抜けそうにない。ガラス張りから、行き交う人々に何気なく目を向けて、不思議に感慨深い。愛らしい犬の尻尾、黒い帽子、銀縁の眼鏡、紺のジャケット、橙のストール、青のカットソー、あらゆる色の装飾品であらゆる人が着飾る。其れを見るにつけ、あア、やはり、やはり、最も美しいのは、この靴なのだな。爪先を優しく撫ぜるように在る靴の、其のことがまた悔しかった。


*


(男にとってその脚のひどく麗しいことと言ったらなかった。腿から膝裏、踝、爪の先に至るまでの、白さ、細さ、長さ。それら全てを見とめるにつけ、此の存在の神の創造を感謝せずにはいられなかった。そしてかの女が己とごく近くに生きており、触れることのできることが何よりの賜物と思い、拙い己の創造物で其の大理の彫像のような脚を束縛することのできる悦びが、常に男の存在意義と言っても良い。つまりは、男の求めているのは其れのみである。女の美しい脚の爪先のみ、しなやかな神の創造物を己の創造物で装えることができれば、男には満足が与えられ、他に何も必要ないのだった。)

作品名:Maria Magdalene 作家名:藤中ふみ