移ろいの中でⅡ 12月12日 廃棄物と金になる農業 追加
さてあなたは愛することができるでしょうか?
このネット社会、老若男女問わず不倫に走る人も多くその気持ちも十分理解できます、経験者ですからね。それを汚らわしいとか、考えられないと否定する人もいます。しかしこれを否定するということはその反対に肯定を認めることになりますよね。陰と陽、+-同じだけ。完全否定すると立場が違うだけで一こま飛ぶとそれが完全肯定になるのが怖いのです。
たとえば愛する人を裏切りたくない、泣かせたくない、確かにそうです。ところがその愛してはずの人があなたを愛していなかったことが分かったとき、それは全面的に逆転する、私は騙されたと。するとなんで?となり、じゃあ私も??全肯定のベクトルが現れだす。そうでなければ裏切られた、愛した私が馬鹿だったと、離れてしまいます。
またこんな人もいらっしゃる、私を愛しているのなら他の人と食事もだめ。デートなどとんでもなく、メールも電話も駄目。それはなぜ?私がいるから??でもそれはただの独占欲ではないでしょうか、そんなのは愛ではないのですか。あなたがその人を愛しているのなら、どうぞ食事をしていろんな話を聞いていらっしゃいでいいのはないでしょうか。
一方肯定し快楽は他でも求めると考える。もっといいセックスがあるはずだ。もっと刺激のある、もっととろけるような。ところが本当の愛は無いから深い満足感は得られず、常に新しい刺激を求めるだけ。おなかが空いてどこぞのハンバーガーでも食べるがごとく、そんなところで一流料亭の料理がでるはずはないのです。
チルチル、ミチルが幸せの青い鳥を見つけに行ったが結局自宅にいたごとく、実はその心のそこから味わえる幸福感と身体がとろけるようなセックスも直ぐそこにあるのです。
相手を愛することはとても気持ちがいいことです、しかし人間て面白くてそれを感じると今度は甘えが生まれるのですね、都合いいようにできています。彼は彼女は私を愛してくれている、総てを受け入れてくれる。だから何をしても受け入れてもらえると。
相手の愛に対し、愛でこたえればこれほど上手くいくものは無いでしょうが、そうはいかない。すると一方的な愛しかなくなる。それも愛し続ければいいのだけどある時これは違うと思い出す。だから悩む。悩むと隙ができそこへ入り込むのは宗教まがいと甘いわな
マザーテレサの言葉に「愛の反対は無関心」というのがあるそうです。なるほどマザーテレサだなあと感心しました。
肯定も否定もせずそこにあるのは無 行うのは愛ということでしょう。
肯定すると否定が生まれる、否定も肯定もするのではなく無にしてしまわなければならない。そのためには相手を愛する、つまり疑うことなく信じ相手のためだけを思い行う。
愛すること、実にシンプルで簡単なことなのですが、これを行うとなると実に難しい
何事も口で言うのは簡単ですが、行うのは至難の業
お互い愛し合うもの同士めぐり合うのはある意味奇跡なのかもしれないなとうちの嫁さん見ていて感じます。彼女はおそらく菩薩なんでしょう。
さてあなたは愛するということができますか?
作品名:移ろいの中でⅡ 12月12日 廃棄物と金になる農業 追加 作家名:のすひろ