『喧嘩百景』第9話緒方竜VS松本王子
しかしそいつは竜と目が合うとにっと笑って手を振った。
――何、やと――――。
知っている。そういう顔だった。そいつは真上に竜がいることを百も承知でわざと四階のその窓から顔を出していたのだ。
――あいつ。
竜はもう一度ポケットに手を突っ込んだ。
くすりと笑う声が聞こえる。
竜は窓枠を思い切り殴り付けた。
ポケットから取り出したアメ玉をまとめて投げ付ける。
――待っとれ、今、下りて行ったる。
しかし、窓を離れようとする竜の視界の端で、何かが窓から飛び出した。
竜は慌てて窓枠に飛び付いた。
「あほう!!やめえっ!!」
下に向かって怒鳴りつける。
あろうことか窓枠に足を掛け身を乗り出しているやつがいる。そいつが知らん顔で煙草をふかしているもう一人の頭の上に降り注ぐアメ玉を受け止めたのだ。
竜は見ただけで総毛立った。
「その関西弁、あんたが緒方竜だな」
そいつは窓枠に手を掛け、窓の外へ背を向けて、竜を振り仰いだ。
襟には緑の記章。一年生――――。
しかし、竜はそれどころではなかった。
「あほんだら!!今すぐ下りてったる、そこ動くんやないで!!」
鳥肌が立ち、指先から血の気が引く。
すぐ下りて行くとは言ったものの、竜はそこを動けなかった。
そいつが竜の言葉もお構いなしに窓から身体を出して煉瓦風の模様になっている壁面のタイルの目地に手を掛けたからだ。
竜は窓枠にしがみついて手を差し伸べた。
一刻も早く止(や)めさせなければ自分の神経の方が保たない。
そいつは当たり前のように竜の手を掴んで五階の窓に飛び上がった。
「さんきゅー先輩 v」
まだ中学生のようなそいつは幼さの残る笑顔を竜に向け、
「俺、松本、松本王子(おうじ)。あんたが今ここのナンバー1なんだってな」
と言った。
その言葉は、竜にとってはイヤミ以外の何ものでもなかったが、彼にはまだ反論するための心の余裕が戻ってはいなかった。
「あほう!!俺に用があるんやったら早う入って来んかいっ」
窓から離れて相手に下りてくるためのスペースを空けてやる。
小柄な一年生はぴょーんと彼の目の前に下り立った。
小さい。そいつは、長身の竜よりも三○センチばかりチビだった。
作品名:『喧嘩百景』第9話緒方竜VS松本王子 作家名:井沢さと