水仙
コーン、バットの芯が球を捉え、打球はライトの頭上を越えていった。渾身のヒットである。ベンチが総立ちになった。
僕は一塁に走り込みセーフ、その間に雪江さんはホームを踏んだ。ベースで小躍りする彼女からは炎のようなオーラが立っていた。
予想外の長打を浴びた女ピッチャーは制球が乱れ、バッターが次々安打を放ち、何と!僕らのチームは雪辱したのである。奇跡の勝利は雪江さんのおかげだったから、興奮した僕らは尻込みする彼女を胴上げした。
バンザイ!バンザイ!青空に翻る白トレパンの雪江さんは光り輝く白鳥であった。
その後スナックで祝勝会を催したが、雪江さんの白鳥は輝き続けた。カラオケで松田聖子を熱唱したが、本物以上に輝いてやんやの喝采を浴びアンコールが続出した。
「出来のええ別嬪が来てくれたもんや、えらい宝もんや、お前には勿体ない」
龍兄は冷やかされ、皆の前で年明けの挙式を宣言したのである。
しかし年明け、二人の挙式どころか、僕の家族は瓦解したのである。
五
その年のことをうまく思い出せない。
悪い夢を見ていたようで、自分のことと思えなかったし、思いたくなかった。
その年は正月早々に兄が遭難し、四九日を済まさぬうちに父が倒れ、桜を待たずに雪江さんが出て行ったのである。
余りにも短期間に大切な人々が無くなったため、それを受け入れることが出来なかった。呆然と、まるで他人事のように、不幸なドラマを観ているように、やり過ごすしかなかった。
悲しいとか、辛いとか、苦しいとか、言葉に出来ない絶望感に襲われたのはもっと後になってからである。
兄が遭難したのは年明け早々であった。
年末から寒気団が居座って海は荒れ、稼ぎのカニ漁が不調だった。カニの浜値は驚くほど跳ね上がり、春には挙式だけでなく新居も計画していたから、兄は焦っていたのだと思う。寒気団が弱まった隙を狙って出漁したのである。何隻か後に続いたが、多くの船はもう少し様子を見ようと留まった。
昼過ぎから突風が吹き出し海が毛羽立ち始めたから、そのうち帰ってくるだろうと思っていたが、冬の早い陽が落ち波風が強くなり、白兎の波が走っても帰って来ない。不安な思いで夕食を待っていた時、漁協の有線放送が遭難を伝えた。僕らは慌てて漁協に駆けつけたが、それから先は良く覚えていない。
ただ、漁協の二階から何日も何日も冬の荒海に祈り続けたから、大自然の非情さ、無情さ、人の思いなど歯牙にもかけない酷薄さを思い知らされた。祈るような、すがるような、必死の願いをあざけるように、鈍色の空から粉雪が舞い落ち暗い海に吸い込まれていく。
沖合からゆっくり膨らみ押し寄せる津波のような海、牙を剥いて襲いかかる白波、滝のように砕け散る飛沫、なぜか白波を浴び続ける赤い灯台が焼き付いている。
十日ほどして、変わり果てた兄たちが戻ってきた。
安置所で対面した龍兄のデスマスクは彫像のようだった。冷たい化石になった兄にすがって雪江さんは、何で!何で!と嗚咽していた。
父が倒れたのは兄の初七日を済ませた朝であった。
遭難から遺体の回収、合同葬儀から初七日まで不眠不休の心労が続いたから、血圧の高かった父は限界を超えたのである。
その朝、なかなか起きてこない父を見に行くと高いびきで寝ていた。僕は疲れているのだと思って起こさなかった。その後雪江さんが様子を見に行って、顔を真っ赤にしている父の異変に気付いたのである。
救急車が駆けつけ、隣町の総合病院に運ばれ、集中治療室に入れられ、次兄が呼び戻され、開脳手術が施された。辛うじて一命を取り留めたものの、チューブを捲いて横たわる植物人間になってしまった。
意識の戻らぬ父を特別病棟に入れた後であったと思う。
次兄と叔父、伯母、それに本家が集まって我が家のことについて話しあった。意識不明の父は病院で見てもらうしかなかったから、一番の問題は残された中学生の僕をどうするかであった。
僕は新婚間もない次兄宅にも、遠方の叔父や伯母の所にも行きたくなかった。母のいないのに馴れていたし、生まれ育った場所を離れるのがいやだった。内心では雪江さんにいて欲しかったが、それは言えなかった。
ここにいると告げると、本家の小父さんは漁師が助け合うのはしきたりやと快く引き受けてくれた。小母さんが言い添えた。
「そやけど、一番ええんは雪江さんがおってくれることやないやろか?」
僕が黙って頷くと、一同は「そうやな、それが一番ええなあ」と口を揃え、彼女に頼んでみることになった。呼ばれた雪江さんは傷心の余り、いかにも痛々しかった。
本家の小父さんが切り出した。
「・・この度はえらいことになってしもうた。せっかく、遠くから結婚しようと来てくれてたのに、肝心の龍兄は亡くなった。そのうえ、親父さんは寝たきりになるし、まるで戦争中みたいや。申し訳ないちゅうか、不運ちゅうか、酷い話しや。」
「・・貴女の身の振り方やけどな。良かったらしばらくここにおったってくれへんやろか。洋はここで頑張るちゅうんや。うちが面倒見るんやが、貴女がおってくれると心強い。」
「もちろん、貴女は若いし、先のことがある。いつまでとは言わん。貴女の身の振り方が決まるまででええ。・・厚かましい話やけど、しばらくおったってくれんやろか。」
俯いて聞いていた雪江さんは声を詰まらせた。
「・・うちはてっきり、出て行け言われると思うてました。それがおってくれ言われるなんて。」
「ここは龍さんと一緒やったから辛いけど、お父さんには恩があるし、洋くんを独りにするのは可哀相や。・・それに、うちに身寄りがありません。よろしゅうお願いします。」
途切れがちにそれだけ言うと、深々と頭を下げた。
六
大きな田舎屋に父と兄がいないのはポッカリ空洞が出来たようで辛かったが、雪江さんが残ってくれたことはせめてもの救いであった。
憔悴していた雪江さんは暖かくなるにつれて食欲が戻り、元気になっていった。
僕が学校に行くようになると、以前のように早く起きて朝食を用意し、一緒に食べてから送り出してくれた。午前中に家事や畑仕事を片付け、午後は父の見舞いや買い物をし、夜は温かい手料理を用意してくれた。
父と兄の欠けた夕食は淋しかったが、テレビ相手の二人の団欒は静かで心安らぐものである。
「以前、ほんまの姉弟や言うて指切りしたやろ。うちが出て行ったら、ほんまの姉弟が終わると思うて・・独りぼっちの洋くんを見捨てたらあかんと思うた。洋くんにうちみたいな辛い思いをさせとうないんや。」
辛い思い・・兄と父のいないのは辛かったが、不謹慎なことに、僕は雪江さんを独り占めした嬉しさも感じていたのである。
そんなある日、Tと名乗る男から電話があった。
兄が遭難したことを知っていてお悔やみの言葉を述べ、雪江さんがいるかと尋ねた。今はいないと応えると、一度伺いたいからと家の所在を尋ねた。紳士的なもの言いで、僕は何も疑わず住所を教えた。