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水仙

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 雪江さんはエプロンを着けると、いかにも町の若奥さんと言う感じだったが、周りへの気配りといい軽快な身のこなしといい、朝早くから夜遅くまで良く動いて漁師育ちの健気な娘のようであった。
 朝は暗いうちに起きて弁当を作り、兄たちを送り出すと、仏壇に手を合わせて漁の安全を祈願した。それから布団を上げ洗濯機を動かし、畑の様子を見て食事を用意し、僕を起こして朝食をとったものである。それまで僕は独りで食べていたから、雪江さんと一緒の朝食は楽しかった。今でも彼女との朝食を想うとひどく幸せな気分になれる。
 朝の光が台所に差し込んで煮炊きする鍋から湯気が立っている。換気扇の唸る音がしてご飯や煮物の匂いが漂う。エプロン姿の雪江さんがご飯を大盛りによそってくれる。
 「洋くんは一杯食べるからね、ハイ!」
 調子者の僕はすぐに平らげお代わりを要求する。彼女はちょっと困った顔をして並盛りにする。
 「ハイ!しっかり噛んで食べるのよ。」
 僕は忠告を聞かずにかき込んで三杯目を要求する。彼女は少し怒った顔をして言う。
 「これでお終い!調子に乗って食べたら肥満児になるわよ。」
 彼女に睨まれたり怒られたりするのが好きだった。
 切れ長な眼がキッと僕に張り付く。奇麗と言うか、涼やかと言うか、僕は愛されている実感を覚えるのである。それは小学生の時、担任の若い女教師にまとわりついて困らせた感情と似ていた。母を知らない僕は雪江さんに、母のようにかまってもらいたかったのだ。
 彼女にかまってもらって喜んだのは僕だけでなかった。
 龍兄は当然だが、男やもめをかこっていた父もかまってもらって嬉しそうだった。
 高血圧の父は大の阪神ファンで、試合が始まると酒瓶片手にテレビを観るのが常であったが、雪江さんが来てから酒量をしっかり管理されるようになった。例えば、こんな調子である。
 苦戦の阪神が点を入れたりすると、父はグイと茶碗酒を飲み干す。
 「やった!これからや~雪江さん、お代わり!」
 ここでホームランが出たりすると、二杯目もすぐに空になる。
 「行!行け!あと一息や!もう一杯!」
 三杯目を注ぐとき、雪江さんは「これが最後ですよ」と念を押す。しかし逆転勝利などすると、父の茶碗酒は三杯でおさまらない。
 「勝った!勝った!祝杯や!」
 勝利酒を要求する父に、雪江さんはキッと睨んでコップを差し出す。
 「ハイ!お父さんの祝い酒。」
 可愛い嫁に睨まれた父は満更でもなく、コップは僕らにも配られる。
 「ハイ、龍さん。ハイ、洋くん。皆で乾杯!」
 コップは水で、乾杯はお開きの合図である。雪江さんの音頭で乾杯すると仕方なく自室に戻ったものである。
 雪江さんと過ごした夕食後の時間を何と言えば良いのだろう。
 面白い話題で盛り上がった訳でなく、ゲームなどに熱中した訳でもない。ただ家族が寄り添って、漫然とテレビを観ながらよもや話をする。何の変哲もない、取り止めのない時間がなぜあれほど心地良かったのか。
 思えば、それまで我が家には家族でくつろぐ習慣がなかった。
 そもそも夕食(父が作った)に男三人揃うのが珍しかった。兄は良く夜遊びに出かけたし、父も夜なべ仕事を励んだ。たまに三人が揃っても男同士で話が弾まなかった。ところが雪江さんが来て、家族に膨らみが生まれ暖かい雰囲気になったのである。兄は勿論だが、父も夜なべ仕事を自粛した。僕は皆の揃う夕食が嬉しく楽しみにした。
 彼女は慈光を発する卵で、僕らは卵の温もりに身を寄せて、母のいない侘びしさを癒やそうとした。それは丁度、男世帯の寒い部屋にストーブを入れたようなもので、僕らはストーブの周りに群がり、冷えた心身を暖めようとしたのである。後にも先にも、あの時のような温かな気分、安らいだ気持ち、家族の無償の一体感を味わったことがない。
 ある時、父が母の遺影に手を合わせて拝んでいた。
 「ナンマイダ、ナンマイダ・・ええ娘さんが来てくれました。お前がおったときみたいに暖こうなりました。おかげで皆元気に仲良うしとります。雪江さんがいつまでもおってくれますように・・ナンマイダ、ナンマイダ。」

 その夏、僕は雪江さんともっと直接的な、もっと親密な一体感を味わったのである。



 龍兄と父がイカ漁に出かけた、初夏の宵であった。
 僕は雪江さんと海を見下ろす縁側で湯上がりを涼んでいた。縁側からは夕闇に包まれる広大な日本海が一望出来る。
 仄かに残る夕映えが消え、暗さを増す空が黒々とした海に融け入ろうとしていた。沖合で無数の漁り火が蛍のように明滅している。空と海が闇に包まれると、満天の星が輝きを増し、漁り火と見分けがつかなくなる。浴衣姿の雪江さんが眼を細めて呟いた。
 「洋くん、龍さんの船がどれか分かる?」
 蛍のような無数の漁り火を識別するのは不可能である。
 「分からへんな~」
 「そうか、洋くんでも見つけられんか。」
 海風が思い出したように吹き抜ける。チリンチリンと風鈴が鳴り、湯浴みした雪江さんの甘やかな匂いが掠めていく。満天の星、明滅する漁り火、吹き抜ける海風、軽やかな鈴虫の音、雪江さんの匂い、心の安らぐ濃密な一時であった。
 突然、雪江さんが呟いた。
 「洋くん、耳掃除したげよか。」
 なぜ耳掃除を思いついたのか分からない。夕涼みをしていて思いついたのか、それとも以前から気になっていたのか、僕は一瞬戸惑ったが喜んで応じた。
 「最初は右耳よ。」
 言われるまま雪江さんの太ももに頭を乗せた。
 後頭部を腹部で固定すると彼女は耳を覗き込んだ。弾力のある太もも、ふくよかな腹部、甘やかな吐息、僕は眼を閉じる。
 「ある、ある、じっ~としててよ・・」
 綿棒が優しく耳の奧に挿入される。ゾクゾクと快感が走る。
 彼女は息を詰めてカサコソ耳垢を掻き出そうとしている。こそばゆいが気持ち良い、気が遠くなるような気分である。
「ほれ~、見て!」
 彼女は耳垢を掻き出して掌に落とす。僕はうっすら眼を開けてそれを確認する。彼女はまるで獲物を仕留めたように満足げである。
 「今度は左耳!向きを変えて。」
 向きを変えると、顔の前面がふくよかな腹部に当たる。太ももと腹部に挟まれた僕は、雪江さんの肉肌の温もり、甘やかな体臭、規則的な呼吸に穏やかな一体感を感受している。耳掃除が終わると、雪江さんは唇を当ててフウ~と息を吹き込んだ。
 ザワザワと鳥肌立つような官能が走った。皮膚感覚が逆撫でされるような快感である。
その後、意識が遠のくような、ホワ~と溶けるような陶酔が広がった。
 あの時の不思議な一体感と陶酔感をどういえば良いのであろう。
 それは肉肌を重ねる密着感であり、身体を委ねる安心感であり、耳を弄られる快感であり、耳道に息を吹き込まれる愉悦であり、心と身体がとろけるような官能であった。
 今から思うと、あの陶酔には雪江さんと僕との母子的な官能だけでなく、お互い無自覚であったが、男女の性的官能も孕まれていたのではないだろうか。
 それから僕はしばしば耳掃除をしてもらい、彼女は問わず語りに半生を語ったものである。
作品名:水仙 作家名:カンノ