水仙
水仙
「水仙って寒い季節に咲くんやろ。白い小さい花で・・うち一遍見てみたいな~」
東大阪の町工場で働いていた僕は、ユキとデートするために先輩の車を借りたが、寒い季節でこれと言って行く当てはなかった。以前、「俺の田舎は水仙が一杯や」と言ったのを覚えていたのかもしれない。
ユキは繁華街や行楽地の人混みを嫌う地味な娘である。
僕の田舎は越前海岸に張り付いた小さな漁村で、父の死後空き家になってからは帰っていない。かれこれ十年になるだろうか。
この季節、高台にある僕の家は水仙の白い花に包まれる。清楚で芯の強いユキはどことなく可憐な水仙を思わせる。
僕はユキに生まれ育った所を見てもらおうと思った。
「ユキ、田舎の水仙を見に行こうか。この天気なら大丈夫やろ。」
冬場、太平洋側は快晴で安定していても、日本海側の天候は目まぐるしく変化する。故郷に向かう道路は吹雪くかもしれないし、凍結しているかもしれない。行ける所まで行って、無理なら引き返せば良いだろう。
ユキは「ワァ~イ、洋くんの田舎へ行くんや」と喜んだ。
京都から新潟に向かう国道8号は敦賀を過ぎた辺りから日本海沿いを走る。
幸い天候の急変は見られず、道路も凍結しておらず、このまま田舎まで走れそうである。車窓に鈍色に閉ざされた冬の日本海が広がっている。
重くたれ込める雲、雲間から漏れる微かな光、大きくうねる暗い海、押し寄せては砕け散る白波、ド~ン、ド~ンと地鳴りのように海が吠える。
幼い頃から親しんだ荒れ海を見ていると、望郷の思いであろうか、久しく封印していた心の何かが動き始めた。岬の付け根の峠から漁港の斜面にある我が家が見えたとき、それは止めようもなく溢れだした。切なさや懐かしさ、悔恨や自責、怒りや焦りがない交ぜになった、ほとばしるような感情である。
家の下に車を駐めると一気に急坂を駆け上がった。斜面に群生する水仙の花が風にそよいだ。息せき切って玄関に立ち引き戸を開けようとしたが、嫌がるように、拒むように、容易に開かない。きっと空き家のまま放置されたことを怒っているのだ。
一面の水仙に、ユキは「ワァ~可愛い!」、「ワァ~きれい!」とはしゃいでいる。
やっとの思いで玄関を開けると、かび臭い淀んだ空気が恨むように咎めるように押し寄せてきた。うっすら埃をかぶった下駄箱も、置物も、カレンダーも、昔のままである。柱時計の振り子が死んだように動かない。
僕は長い非礼を詫びようと仏間に急いだ。閉ざされた空気が動き、畳を上げた黒光りの床板が軋み、差し込む光りに埃が舞った。仏壇に手を合わせると長い放置を詫びた。得体の知れない哀切が込み上げて身体を震わせた。
どれくらい手を合わせていただろう。
ユキの「洋くん~」と言う不安げな声が聞こえた。振り返ると、戸外の溢れる光を背にユキが立っている。逆光のユキは黒いシルエットで、水仙を抱えた胸の辺りがボーと光っている。思わず僕は叫んでいた。
「あっ、雪江さんや!」
一
雪江さんが来たのは僕が中学に上がる春であった。
当時、僕の家は母が亡くなっていたから、父と長男の龍兄と僕の男世帯であった。次兄は名古屋で結婚しており、龍兄と僕は一回り以上年が開いていた。
母は僕の難産で亡くなったから、物心のついた頃から僕は自分のせいで母が亡くなった、自分は産まれなかった方が良かったのではないか、と感じてきた。今も心のどこかに母への負い目、生まれたことの罪責感のようなものが残っている。
僕は祖母に育てられたが、その頃既に他界していたから新学期の準備は自分でしなければならなかった。その時も自分の部屋で中学入学の用意をしていたのだと思う。
その年のカニ漁は大漁だったから、兄たちは泊まりがけで遠方の花街まで繰り出していた。腰痛に悩む父はもっぱら漁協の仕事を手伝っていた。そんな昼過ぎ、ガラガラと玄関戸を開ける音がして兄の声が響いた。
「洋、おるか~土産や。」
ドサッと荷物を放り出す音がした。
きっと、僕の欲しがっていた野球のグローブだろう。急いで玄関へ行くと、大きな兄に隠れるようにハーフコートの女がいた。玄関の逆光で顔かたちは分からないが、恥ずかしそうに頭を下げた。
「初めまして、雪江と言います。お世話になります・・」
薄暗い土間で白いコートのせいだろうか、ボーと発光しているように見えた。
その夜父が帰ってくると、龍兄は恐縮して小さくなっている雪江さんを紹介した。ぶっきらぼうな言い方で、紹介と言うより宣言に近かった。
「この娘はワシと暮らすさかい。」
父はギョロリと眺めてからボソッと言った。
「親御さんに断らんでええんか。」
弱みを突かれたのか、兄は憮然として応えた。
「この娘は身寄りがないさかい。」
気まずい空気が流れた。雪江さんは遠慮してさらに小さくなった。父は検閲するように見つめた。彼女は消え入りそうな声で頭を下げた。
「両親はおりません。雪江と言います。よろしゅう、お願いします。」
健気なもの言いに心を動かされたのだろう、父はそれ以上詰問しなかった。
「当分おるんなら、納屋の二階で住んだらええやろ。」
父の許しを得ると、二人は嬉しそうに納屋に引き揚げた。
その時、僕は雪江さんが闇の中でボ~と発光しているのを発見した。背中の辺りに卵状の光源があって柔らかな光を放っているのだ。早春の宵闇のなかを雪江さんがボ~と蛍のように遠のいていく。僕は夢見心地で呆然と見送っていた。それ以来、僕はなぜか好ましい女性に仄かに光る球体、温かな卵のようなものを幻視するようになったのである。
居間に戻ると、父が訝しげに呟いた。
「あの娘、いつまで持つかの~」
随分以前、僕が小学生で祖母が健在だった頃、龍兄が若い女を連れて来たことがあった。女は見るからに水商売風で、お世話になりますと挨拶したのに客人のように遅くまで朝寝した。当然、夜明け前に出漁する兄たちの弁当を作ることも、水揚げされた魚の仕分けを手伝うこともしなかった。働き者の祖母と上手く行くはずもなく、パジャマ姿でダラダラしている女に父の雷が落ちた。
「ワシとこは漁師だ!朝は早えし、仕事はきつい。グウタラ寝とる女に漁師のカカアが勤まるか!」
「そんなに布団が好きなら、パン助になりゃええ!」
パン助とは米軍相手の娼婦のことである。蔑称に女は逆上した。
「パン助?!よう言うたな!魚臭い親父がよ~大酒飲みのくせによ~」
「大酒飲みの親父と、はな垂れ小僧と、口うるせえババアと、こんな魚臭い所で誰が暮らせるかよ~言われ無くてもサッサと出て行ってやる!」
そうタンカを切ると、女は荷物をまとめて出て行った。龍兄への何の言伝もなかった。
グウタラ女に逃げられた兄は村の笑い者になったから、町の女に懲りたようだが、むさ苦しい男世帯に嫁いでくる殊勝な娘は現れず、兄もそろそろ三〇歳に手が届きそうになっていた。口に出さないが、父は良い娘が来てくれるのを願っていた。
問題は今時の娘に、朝の早い漁師の嫁が勤まるかであった。
二
父の懸念は杞憂であった。
「水仙って寒い季節に咲くんやろ。白い小さい花で・・うち一遍見てみたいな~」
東大阪の町工場で働いていた僕は、ユキとデートするために先輩の車を借りたが、寒い季節でこれと言って行く当てはなかった。以前、「俺の田舎は水仙が一杯や」と言ったのを覚えていたのかもしれない。
ユキは繁華街や行楽地の人混みを嫌う地味な娘である。
僕の田舎は越前海岸に張り付いた小さな漁村で、父の死後空き家になってからは帰っていない。かれこれ十年になるだろうか。
この季節、高台にある僕の家は水仙の白い花に包まれる。清楚で芯の強いユキはどことなく可憐な水仙を思わせる。
僕はユキに生まれ育った所を見てもらおうと思った。
「ユキ、田舎の水仙を見に行こうか。この天気なら大丈夫やろ。」
冬場、太平洋側は快晴で安定していても、日本海側の天候は目まぐるしく変化する。故郷に向かう道路は吹雪くかもしれないし、凍結しているかもしれない。行ける所まで行って、無理なら引き返せば良いだろう。
ユキは「ワァ~イ、洋くんの田舎へ行くんや」と喜んだ。
京都から新潟に向かう国道8号は敦賀を過ぎた辺りから日本海沿いを走る。
幸い天候の急変は見られず、道路も凍結しておらず、このまま田舎まで走れそうである。車窓に鈍色に閉ざされた冬の日本海が広がっている。
重くたれ込める雲、雲間から漏れる微かな光、大きくうねる暗い海、押し寄せては砕け散る白波、ド~ン、ド~ンと地鳴りのように海が吠える。
幼い頃から親しんだ荒れ海を見ていると、望郷の思いであろうか、久しく封印していた心の何かが動き始めた。岬の付け根の峠から漁港の斜面にある我が家が見えたとき、それは止めようもなく溢れだした。切なさや懐かしさ、悔恨や自責、怒りや焦りがない交ぜになった、ほとばしるような感情である。
家の下に車を駐めると一気に急坂を駆け上がった。斜面に群生する水仙の花が風にそよいだ。息せき切って玄関に立ち引き戸を開けようとしたが、嫌がるように、拒むように、容易に開かない。きっと空き家のまま放置されたことを怒っているのだ。
一面の水仙に、ユキは「ワァ~可愛い!」、「ワァ~きれい!」とはしゃいでいる。
やっとの思いで玄関を開けると、かび臭い淀んだ空気が恨むように咎めるように押し寄せてきた。うっすら埃をかぶった下駄箱も、置物も、カレンダーも、昔のままである。柱時計の振り子が死んだように動かない。
僕は長い非礼を詫びようと仏間に急いだ。閉ざされた空気が動き、畳を上げた黒光りの床板が軋み、差し込む光りに埃が舞った。仏壇に手を合わせると長い放置を詫びた。得体の知れない哀切が込み上げて身体を震わせた。
どれくらい手を合わせていただろう。
ユキの「洋くん~」と言う不安げな声が聞こえた。振り返ると、戸外の溢れる光を背にユキが立っている。逆光のユキは黒いシルエットで、水仙を抱えた胸の辺りがボーと光っている。思わず僕は叫んでいた。
「あっ、雪江さんや!」
一
雪江さんが来たのは僕が中学に上がる春であった。
当時、僕の家は母が亡くなっていたから、父と長男の龍兄と僕の男世帯であった。次兄は名古屋で結婚しており、龍兄と僕は一回り以上年が開いていた。
母は僕の難産で亡くなったから、物心のついた頃から僕は自分のせいで母が亡くなった、自分は産まれなかった方が良かったのではないか、と感じてきた。今も心のどこかに母への負い目、生まれたことの罪責感のようなものが残っている。
僕は祖母に育てられたが、その頃既に他界していたから新学期の準備は自分でしなければならなかった。その時も自分の部屋で中学入学の用意をしていたのだと思う。
その年のカニ漁は大漁だったから、兄たちは泊まりがけで遠方の花街まで繰り出していた。腰痛に悩む父はもっぱら漁協の仕事を手伝っていた。そんな昼過ぎ、ガラガラと玄関戸を開ける音がして兄の声が響いた。
「洋、おるか~土産や。」
ドサッと荷物を放り出す音がした。
きっと、僕の欲しがっていた野球のグローブだろう。急いで玄関へ行くと、大きな兄に隠れるようにハーフコートの女がいた。玄関の逆光で顔かたちは分からないが、恥ずかしそうに頭を下げた。
「初めまして、雪江と言います。お世話になります・・」
薄暗い土間で白いコートのせいだろうか、ボーと発光しているように見えた。
その夜父が帰ってくると、龍兄は恐縮して小さくなっている雪江さんを紹介した。ぶっきらぼうな言い方で、紹介と言うより宣言に近かった。
「この娘はワシと暮らすさかい。」
父はギョロリと眺めてからボソッと言った。
「親御さんに断らんでええんか。」
弱みを突かれたのか、兄は憮然として応えた。
「この娘は身寄りがないさかい。」
気まずい空気が流れた。雪江さんは遠慮してさらに小さくなった。父は検閲するように見つめた。彼女は消え入りそうな声で頭を下げた。
「両親はおりません。雪江と言います。よろしゅう、お願いします。」
健気なもの言いに心を動かされたのだろう、父はそれ以上詰問しなかった。
「当分おるんなら、納屋の二階で住んだらええやろ。」
父の許しを得ると、二人は嬉しそうに納屋に引き揚げた。
その時、僕は雪江さんが闇の中でボ~と発光しているのを発見した。背中の辺りに卵状の光源があって柔らかな光を放っているのだ。早春の宵闇のなかを雪江さんがボ~と蛍のように遠のいていく。僕は夢見心地で呆然と見送っていた。それ以来、僕はなぜか好ましい女性に仄かに光る球体、温かな卵のようなものを幻視するようになったのである。
居間に戻ると、父が訝しげに呟いた。
「あの娘、いつまで持つかの~」
随分以前、僕が小学生で祖母が健在だった頃、龍兄が若い女を連れて来たことがあった。女は見るからに水商売風で、お世話になりますと挨拶したのに客人のように遅くまで朝寝した。当然、夜明け前に出漁する兄たちの弁当を作ることも、水揚げされた魚の仕分けを手伝うこともしなかった。働き者の祖母と上手く行くはずもなく、パジャマ姿でダラダラしている女に父の雷が落ちた。
「ワシとこは漁師だ!朝は早えし、仕事はきつい。グウタラ寝とる女に漁師のカカアが勤まるか!」
「そんなに布団が好きなら、パン助になりゃええ!」
パン助とは米軍相手の娼婦のことである。蔑称に女は逆上した。
「パン助?!よう言うたな!魚臭い親父がよ~大酒飲みのくせによ~」
「大酒飲みの親父と、はな垂れ小僧と、口うるせえババアと、こんな魚臭い所で誰が暮らせるかよ~言われ無くてもサッサと出て行ってやる!」
そうタンカを切ると、女は荷物をまとめて出て行った。龍兄への何の言伝もなかった。
グウタラ女に逃げられた兄は村の笑い者になったから、町の女に懲りたようだが、むさ苦しい男世帯に嫁いでくる殊勝な娘は現れず、兄もそろそろ三〇歳に手が届きそうになっていた。口に出さないが、父は良い娘が来てくれるのを願っていた。
問題は今時の娘に、朝の早い漁師の嫁が勤まるかであった。
二
父の懸念は杞憂であった。