赤のミスティンキル
「あ、あの父さま……。お気を付けて」
「任せておいて! すぐ戻ってくるから待っていて!」
レオズスはにこやかに片手を振ると、空間の縁にまたがるようにして穴の中へ入っていった。レオズスがいなくなるやいなや、穴の周囲には細かな電光が幾筋も走り、そののち黒い穴は消えてなくなった。
(二)
父が去り、エリスメアはひとり、丘陵地に立つ。
青空の下、初夏の日差しが草原を美しい緑に彩る。鳥の声が聞こえる以外に音はなく、のどかな風景が広がっている。また丘陵地を囲むように、デュンサアルの山をはじめとしたイグィニデ山系が青々と連なっている。
魔導王国ラミシスのあった島に行く。可能性としては考えていたが、まさか本当のことになろうとは。実感がわかない一方、不安と焦燥感は今も強く抱いている。。
しかし今の彼女の胸に去来する思いはそれだけではなかった。神獣に騎乗するということ。それはエリスメアにとって、たいそう心躍るものとなった。神獣に乗った人間など、彼女の知るかぎりでは存在しないのだ。夜、東の空に輝くイゼルナーヴの星か、もしくは南天に煌めくエウゼンレームの星か。あの星の光が神獣となり、この地にやって来るというのだ。自分がこの世界の物語を綴る、その一端を担おうとしているとは! これもまた予想外であった。
(父さまが帰ってくるまで、しておくことは無いかしら?)
出立するにあたって最低限必要な装備――食料等――は確保できている。用意は周到だ。さらに弦楽器《タール》弾きであるハーンはちゃっかりと、小型のマンドリンまで持ってきている。
「あとはこの写本……」
エリスメアは自分の荷物の中から一冊の本を取り出した。ハーンと共に旅立つ前、アルトツァーン王立図書館の文献を書き写しておいたのだ。
『未踏の地ラミシス 〜カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より〜』
エリスメアは腰を下ろすと本を開き、読みふけっていった。
(そうね。冒険に憧れて、自分にもこんな体験ができるかもしれないとなれば、それはわくわくするでしょうね。神獣に乗ろうとしている私の胸が今、こんなにも高まっているように……)
書を読みつつエリスメアは、まだ見ぬ二人の――今は島を冒険しているであろうミスティンキル達の心境を自らに重ねていくのだった。
そして時は過ぎていき――
◆◆◆◆
――バズン!
不意に何かが大きく弾ける音がした。それまで読書に没頭していたエリスメアはびっくりして面を上げた。
数フィーレ先、空間の一部に黒い穴が開き、細かな電光がしゅうしゅうと白い煙を上げてその周囲を覆っている。父が帰ってきたのだ。
「お帰りなさい!」
エリスメアは漆黒の穴に向かって声をかけた。
「ただいま、エリス」
闇の中からひょっこりとハーンが姿を現した。ほどなく、次元をつなぐ穴はすうっと空間に溶け込むように消滅した。
「なんとか話を付けたよ。一匹貸してくれるってさ。これから喚ぼう!」
こともなげにハーンは言った。本当にイシールキアは自らの神獣を貸すことにやすやすと応じたのだろうか。それはハーンしか知らないことだ。ハーンはエリスメアの前に立った。
「……で、喚ぶんだけどさ、エリスにも力を貸してほしいんだ。魔力を――“色”をいくつか抽出してくれないか。小石程度の大きさでいい。数色を丸めて空中に浮かべてほしい。それと僕の魔力とを一体化させてレオズスの“印”を作る。それから喚び出しを始めるって算段さ」
「分かりました。では魔導で定石どおりの七色の魔力を出すわね。後は父さまに任せます」
「うん。頼んだよ」
エリスメアは目を閉じ、大きく一呼吸し――
《ウォン!》
魔導のはじまりのことばを発した。
同時に彼女は目を開き、踊るように腕を動かす。――と、地面から、木々から、大気中から、魔力を帯びた“原初の色”が次々と顔をのぞかせる。エリスメアは指を細かく動かし、“原初の色”から魔力の糸を紡ぎ、裁ち切る。エリスメアはそれらを自分のもとまで引っ張り出すと、頭上に滞空させた。その色は白、黄、緑、紅、紫、黒、蒼。“原初の色”の一部たる七つの色だ。
エリスメアは人差し指をくいと曲げる。すると七本の糸は次々に丸まり、それぞれ単色だが鮮やかな色彩を持つ球となった。
「お見事」
ハーンの賞賛に対してエリスメアは笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「じゃあこれからは僕の番だね。……むん!」
気合い一声、ハーンは胸元で両手を組み合わせ、自分の中に宿る漆黒の魔力をわずかばかり引き出した。これも頭上のものと同じく小さな球となっている。彼は漆黒の球を手のひらに置くと目を閉じて軽く念じる。と、漆黒の球は七色の球を呼び寄せて次々に吸い込んでいった。
次にハーンは、人間には発音不可能な神代の言語を発した。その言霊を受けて黒い球はパンと弾け、重層構造を持つ星形の紋章へと姿を変えた。これがレオズスの“印”だ。
そうして彼は南天、エウゼンレームの星がある位置を向き、黒い紋章を右手で高く掲げた。
「エウゼンレーム! 汝が主、イシールキアの許しを受け、“宵闇の”レオズスが命ずる! 南方の守護者エウゼンレームよ、我が元に来たれ!」
エリスメアにも通じるように、朗々としたことばをハーンは放った。瞬刻、薄い硝子の板が割れるような音を立ててレオズスの紋章は粉々に砕けた。それは一陣の風に舞い散って周囲の空気に溶け込む。と同時に、ハーン達の周囲は薄墨を水に溶かしたごとくに暗くなり、ぶうんと低く唸り始めた。やがてそれはどうん、どうんと打ち鳴らされるのが体感できるまでの重い音となって大気を震わせた。この領域は今や、召喚の儀式にふさわしい超常の様相を呈している。
見上げれば、空にきらりと、青白く光るエウゼンレームの星が現れた。夜にならないと顔を見せないはずのその星は、地上の振動に呼応し、力強く脈打つように瞬きはじめた。
ドン!
唐突に、大気の振動がぴたりと止む。空間の色は元に戻り、静寂が周囲を支配する。すると南天の星は太陽のごとくさらに眩く輝き――光の軌跡をあとに残しながら天空を動き始めた。
神獣エウゼンレームがレオズスの召喚に応じたのだ。
「来るよ! エリス!」
「ええ!」
エウゼンレームが向きを変え、地上に向けて降下し始めた。
自分達はとてつもないものを喚び出したのだ――! しかしハーンとエリスメアは怖じ気づかずに覚悟を決め、この光を注視した。尋常ならざるものが、途方もない速さでもってこちらに向かってきている。その勢い、まさに神速。
二人がエウゼンレームの姿を空にかすかに捉えた次の瞬間――突如、轟音が巻き起こって大地が大きく揺さぶられた。ハーン達はとてもではないが立っていられず、その場にぺたりと座り込んだ。
やがて地震が収まる。神獣が地面に衝突したのだと二人は知る。そして震源となったもの――光輝に覆われたものの姿を見る。
「……これが神獣……エウゼンレームか……」
二人は神獣が降臨したという事実を認識した。ハーンにしてもはじめて間近で神獣を見たのだった。