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赤のミスティンキル

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 それから数刻が経った。ミスティンキルは見張りの番に就きながら、東の空が赤みを帯びてくるのを見ていた。空気は薄ら寒く、やや湿り気を帯びている。彼の読みどおり、雨が降るのかもしれない。上空は一面、厚い雲に覆われている。
 そろそろ起床の頃合いだ。ミスティンキルはテントに入るとウィムリーフとアザスタンを起こした。深夜にウィムリーフが放っていた青い光は収束されている。本人はそのことにまったく気がついていない様子で、ミスティンキルとアザスタンにおはようと軽やかに声をかけた。
 そして彼ら三人は揃って簡素な食事をとり、手際よくテントを畳むと足早に野営地をあとにした。

◆◆◆◆

 太陽は昇ったようだ。ようだ、というのは太陽が雲に隠れて見えないからに他ならない。どんよりした鈍色《にびいろ》の空のもと、一行は前方に浮かべた赤い光の球を目印にしてやや早足で歩く。進む方角はゆるやかに登っている。南東――ロス・オム山がわずかでも見えれば珠に頼ることなくオーヴ・ディンデの方角へと歩を進められる。だが今や周囲はもやに包まれており、遠景まで見通すことは不可能だ。
 歩くにつれ、徐々にではあるが地面がぬかるんできているのを彼らは知る。これは雨のためではない。湿原地帯に入り込みつつあるためだ。ウィムリーフが合図を出すと、彼女を先頭に、ミスティンキル、アザスタンの順で一列縦隊を組んだ。西方大陸《エヴェルク》の北、山岳地方で産まれたウィムリーフは、その高原域にある湿原地帯を何度か訪れたことがあり、湿原についてそれなりの知識を持ち合わせていた。
 この湿原を強行突破すると先に彼女は告げたが、それは容易なものではなく危険が伴うと知った上でのことである。地面は滑りやすい上、底無し沼と知らずに足を踏み入れてしまうことすらあるから、常に足元には注意を払っておく必要がある。また熊のように危険な動物と出くわしてしまうこともあるのだ。それでもオーヴ・ディンデに辿り着くためにはここを越えていかなければならない。

 土壌が湿原の泥炭へと明らかに変わった頃、ついに分厚い雨雲からしとしとと雨が降り始めた。激しく降る気配はないものの、当分のあいだ雨模様となるだろう。ミスティンキルはそう推測した。彼は雨よけの術を使って雨を遮断する。三人の頭上には薄く透明な膜が一枚作り上げられた。
 次に彼らは寒さを防ぐことにした。ミスティンキルとウィムリーフがそれぞれたいまつを取り出し、魔力による炎をミスティンキルが灯した。これでいくらかは暖がとれるし、獣よけにもなる。またミスティンキルが制止しないかぎり火は燃え続ける。
 昨日受けたあの強力な呪いは空を飛ぶものに対して降りかかるようだが――事実、今朝の出立から今まで鳥の一羽も見かけたことがない――人が唱えるごく微弱な魔法についてはどうやら干渉してこないようだ。
 さて一方でアザスタンはというと、龍たる彼は体内に炎を宿しているためにそのようなことをする必要が無かった。
 こうして万全とも思えるほど守りを固めたとはいえ、雨の細かな水滴が彼らの服にまといつく。また、ぬかるんだ地面と雨に濡れた草が靴を濡らしていく。ミスティンキルとウィムリーフ、二人の体温は時間が経つにつれ奪われていくのだった。彼らは次第に口数が少なくなり、やがて押し黙って歩を進めるようになった。
 もし周囲が晴れ渡っていたならば、湿原ならではの花々など風光明媚な自然の美しさに心奪われたりもしただろう。しかし今の彼らにはそれに心を向けるまでの余裕はなかった。鹿の群れなどを見かけることがあったが、お互いに無関心だった。

 果たして朝も明けぬうちから何メグフィーレ歩き続けただろうか。やがて彼らはハンノキが茂る小高い丘に辿り着いた。足元の感触が変わったことで、ようやく一行は安堵した。堅い地面がこんなにありがたいものだとは――。丘を登ってみると、眼下は相変わらず霧に包まれているが、前方にアシの群生地がかいま見れる。
「……このまま進むと沼に突き当たるわね。いったん方角は外れちゃうけど、ぐるりと回り道をしていきましょう。……でも丘を降りる前に、ここで休みを取りましょうか!」

 三人は草むらの雨露を払い、布を敷いてその上に座した。濡れそぼった服に付いた水分を拭き取ると、いくぶん寒さが和らぐ。そして靴を脱いでしまうと足先が空気に触れてとても心地よい。
「なあ、この湿原には名前を付けなくていいのか?」
 携帯食をほおばりながらミスティンキルがウィムリーフにふと訊いてみた。他愛ない会話を交わすことで一行の沈んだ気分を晴らそうとしたのだ。
「“霧と雨の湿原”!」
 間髪入れずにウィムリーフが答えた。もしかするとずいぶん前に彼女の中では命名済みだったのかもしれない。それを聞いてミスティンキルは吹き出した。
「……なんだよ、そんな分かりやすい名前でいいのか? 昔の言葉でどうこう……ってほうがかっこうがつくんじゃねえか?」
 ミスティンキルはおどけてみせた。
「そんなことないわよ。たまにはこんな名前もありでしょ?」
 ウィムリーフは久しぶりに笑顔を浮かべた。彼女にも心の余裕が生まれたのだ。
「ほら、“世界樹”だって“黒き大地”だって、あたし達が使うアズニール語じゃないの。それにこの先にある平野は“枯れ野”って名前が付いてるみたいだし、なにも古い言葉ばかりに縛られる必要は無いわ。だから――決まり! “霧と雨の湿原”!」
「はは、まったくしようがねえな。その名前、しっかり日誌に書いとけよ!」
 ミスティンキルも笑ってみせた。一行の雰囲気は一転して和らいだ。

 そして彼らはまた進む。
 昼過ぎになるとようやく雨が止み、霧もかき消えた。ロス・オム山がうっすら見えるようになったところで進行方向をやや修正した。道しるべを務めてきた魔法の球はここでお役御免となった。
 あらためて、ロス・オム山を目指してまっすぐ歩いて行くと、途中で小川を三本ほどまたいで進む必要に迫られた。迂回することはできない。こればかりは仕方なく、それぞれの川の浅瀬を選んで渡りきった。それでも膝上の高さまで水に浸かってしまい、上衣を濡らしてしまった。
 この午後は短時間の休憩を二回挟み、ひたすら歩き続けるのだった。湿原を早く抜け出すために。

◆◆◆◆

 日が暮れようとする頃、ついに一行は湿原地帯を踏破した。疲労困憊し、意識がやや朦朧《もうろう》としていたが、達成感もまたあった。三人はお互いの顔を見合わせ、喜びを分かち合うのだった。
「あのような水浸しの場所を歩くなど、もう御免被るぞ」
 龍にとって湿原はよほど相容れない地域だったのだろう。珍しくアザスタンまでもが音をあげた。
 すぐに野営地を決定すると木を集めてたき火を起こし、夜のとばりが降りる前にテントを設営した。泥にまみれぐしょぐしょになってしまった衣服は洗って乾かす。アザスタンはともかく、ミスティンキルとウィムリーフの二人は裸でいるわけにもいかず、それぞれ大きめの布を一枚身体にひっかけた。

 夕食後、たき火に当たりながらウィムリーフが日誌を書いていると、テントからミスティンキルが出てきて彼女の後ろから抱きついた。
作品名:赤のミスティンキル 作家名:大気杜弥