赤のミスティンキル
ユクツェルノイレの声は妙に穏やかだった。自分が死に至ることがあたかも宿命であることを、むしろ望んで享受するかのように聞こえる。
――「あの身体に再び魂を宿らせることが出来ないものか、私とて考えなかったわけではない。……だが結局のところ方法はただ一つしかなかったのだ。……君達はアリューザ・ガルドの色を取り戻すためにここまでやって来たのだろう? だとすればためらう理由は何もない。君達の魔力を開放してくれ。私も核の内部から同調する」
「でも……!」
ウィムリーフの言葉を制止するかのように、封印核はぼうっと赤い輝きを帯びた。
――「気遣ってくれてありがとう。だが私の命数はすでに尽きているべきものなのだ。……今の私は摂理に反した存在。『奇っ怪な運命』とやらに翻弄されたまま生きながらえているにすぎない。バイラルは君達長命種と違い、百の齢を迎えられることなどほぼあり得ない。たいていはその前に老衰して死に至るものなのだ。もし君達がほんとうに私のことを考えてくれているというのならば、なおのこと――魔力全てをぶつけるのだ。その時となってようやく呪縛から解放され、私は穏やかに“幽想の界《サダノス》”に赴けるというものだから」
地上に生きる者として当然しかるべくして訪れるのが死。だが今までの彼には死ぬことが許されなかった。魔導の封印を守るという使命を担っていたから。しかし魔導を解放するとき初めて、彼は全てのしがらみから解き放たれる。そう。死こそがユクツェルノイレの望む全てであった。
「……魔導の封印が解けたら、イーツシュレウはここから去る。もともとはイシールキア(ディトゥア神族の長)から、魔導の封印を見守る旨を受けて、もう長いこと月にいたのだからな。その必要が無くなったら……これからは“自由なる者”として、各地をぶらぶらと渡り歩こうと思う」
イーツシュレウは淡々と言ったあと、目を伏せた。神にも人間に対する情というものはあるのだ。今の彼は懸命に悲しみを抑え込もうとしているように、ミスティンキルには見えた。
「いずれはこうなることになるものと予想は出来ていたから、だからユクト……長きに渡る辛苦を乗り越えたのだから、その分も含めて“幽想の界《サダノス》”で安らかに過ごしてしかるべきだ。イーツシュレウは君に幸あれと願う。そなたは良き友であった」
感情を押し殺したまま、イーツシュレウは語った。
――「ありがとう。イーツシュレウ。……そして人よ。魔導のことをよろしく頼む。この後、忌むべき事が起きぬよう、再び封印が為されないよう――魔法が常に人にとって良き存在たらんことを願う」
――「では、魔力を解放するのだ。二人とも目を閉じて……呼吸を大きく繰り返し……そうだ。他のことは何も考えなくていい。自分の深層に存在している力を体外へと出すように、想像するのだ」
ユクツェルノイレの言葉どおり、二人は目を閉じて意識を集中させた。今もミスティンキルの身体全体を赤い魔力の膜が取り囲んでいるが、それが徐々に大きく強く膨張していくのが感じとれる。
――「いいぞ。そのまま力を強めていって……私が“開封のことば”を唱えよう……」
――<アーディ>!
そして――。
それがユクツェルノイレの最期の言葉となった。
◆◆◆◆
ミスティンキルは目を閉じる。心の中を無にして、ゆっくり、天上を仰ぐ姿勢をとる。
まぶたに映るのは暗黒ではなく、月の光のイメージだ。白銀が白々と映えていた。
やがて網膜に、自分の魔力――まったき赤がぼんやりと浮かび上がり、じわじわと白銀を打ち消してゆく。
(魔力よ……おれの力……。おもてに出てこい……)
仰いだままの姿勢で大きく呼吸をひとつ、ふたつ。……みっつ。
まぶたの裏側に映る赤は徐々に鮮明に色を写しだし、同時にミスティンキルの心をも高揚させていく。ミスティンキル自身も、自分を取り囲む赤い魔力がさらに力を増しているのが分かった。
おもむろに両手を水平にかざす。掌から魔力を放出させるような情景をミスティンキルは頭の中で描いた。
そして――
――<アーディ!>
ユクツェルノイレによって“開封のことば”が放たれると共に、ミスティンキルは仰いでいたこうべを戻し、かっと両の目を見開く。深紅の両目は今や、ぎらぎらと輝いていた。
「出ろ!」
ミスティンキルがそう叫ぶと同時に、彼の身体に絡まっていた赤い魔力の薄絹は霧散し、瞬時に両の手に集まる。さらに、彼自身の内部に存在する膨大な力もまた、掌の一点に集まった。
龍《ドゥール・サウベレーン》の放つ業火のように、両の手から勢いよく赤い魔力が放たれ、“封印核”の半分を覆い包む。彼の想いによって肥大した赤い力は、炎のような象形となった。それは、ミスティンキルが炎の司であるためだろう。火が氷を溶かすように、赤の魔力によって徐々に立方体の表面が溶けていく。
その反対側で、ウィムリーフもまた魔力を解き放っていた。彼女は両手をぴたりと“封印核”の表面に押し当て、青い魔力を放出させる。彼女の掌を中心として、風にたなびく水のように波紋が幾重にも広がり、立方体を崩していく。
双方の魔力が重なる部分では、赤と青が螺旋状に絡み合い、核の外周に見事な円環を形成させた。
黒い翼の持ち主が真っ赤な魔力を“封印核”に叩きつけ、その反対側では白い羽根の持ち主によって青い魔力が放たれ、“封印核”を振動させている。各々の髪の色、つまり黒と銀は、魔力を発動した本人の色を受けて、妖しくも華麗に色づく。
そして彼らの魔力がぶつかり、融合する中心部では縦の輪が創られ、有機的にうごめきながら廻り、同時に赤・青・紫と色を変化させながら煌めいている。
この時、月に住む様々な種類の精霊達は、真珠の塔を覆い尽くす鮮やかな色を見て、一様にこう思ったに違いない。
――美しい――と。
“自由なる者”イーツシュレウもまた、同様に感じ入っていた。だが、惚けてばかりもいられない。彼自身はこの儀式そのものに干渉することは出来ないが、もし悪しき力が芽生えた場合はそれを断ち切るよう、心構えをしていた。また同時に、月からアリューザ・ガルドへ繋がる“次元の門”を招来しようとしていた。
やがて、ぴしり、という音と共に、“封印核”の表面の至るところに亀裂が走った。
その様はまるで、湖上に張られた分厚い氷が強大な力を受けて割れていくよう。がらがらという大きな音が立方体から響くたびに亀裂は広まっていく。もう少しの時間で“封印核”が割れるのは確実であると思われた。
だが、いくらミスティンキルが膨大な魔力を有するといっても、人間である以上、体内にある魔力は無尽蔵ではない。ミスティンキルは、自身から放出されている魔力がそろそろ枯渇しそうなことが感じ取れた。