赤のミスティンキル
訝しがりながらもミスティンキルは近寄っていく。彼の予感は当たった。それはウィムリーフの持ち物だったのだ。一冊の本と画材。ミスティンキルはそれらを拾い上げた。
ウィムリーフは――地上で塔の壁画を模写したのち、再び屋上まで上ってきた。そうして彼女はなにを思ったのか、ここで本を放棄して身ひとつとなり、翼を広げて飛び去った。
ミスティンキルはこみ上げてくる感情を抑える。
(お前は、こんな大事なものまで捨て置いたのか。オーヴ・ディンデに着いたら必要なものだろう? いろんなことを書き留めたいと思うだろう? 違うか? まったく、お前らしくない……)
ミスティンキルは文字が読めない。しかしこれは熱意あふれるウィムリーフが書き連ねた作品だ。単なる文字や記号の羅列などではない。頁をめくるにつれ、ウィムリーフが一生懸命にペンを走らせる情景が浮かび上がり、堪えたはずの涙がこぼれそうになる。だが今は感傷に浸るときではない。為すべきことを為すときだ。ミスティンキルは本をかかげ、アザスタンに呼びかけた。
「ウィムの忘れ物だ! おれは、あいつにこれを渡さなくっちゃならねえ。さあ、今度こそ行くぞ、アザスタン。オーヴ・ディンデへ!」
ミスティンキルが言い終わるやいなや、それは起きた。
(四)
ガドンッ!
それは直下から強く突き上げられる振動だった。唐突な出来事に、ミスティンキルはよろめいて姿勢を崩した。大岩同士が激突したかのような爆発音が轟《ごう》と響き渡る。
「……っ! 今度はなんなんだ?!」
ミスティンキルは用心深く周囲を確認する。一見したところ状況は依然変わっていないようだが、床の振動は止まらない。
「地震?!」
【いや、自然の現象ではない。魔法によるものだ。こちらに来れば分かる】
そう言われてミスティンキルは元いた場所まで戻り、アザスタンが見たものを確認した。眼下――
【ぬしにも見えているだろう? この塔から魔力が放出されている。いわば魔力の川だ。奇妙なことだ。高みから水が流れ落ちるかのごとく、魔力が空を渡ってオーヴ・ディンデの方向へ向かっている】
「ああ。分かる」
流出量はもはや先程までの比ではない。“探知の術”に頼らずとも目視できる。まるで洪水だ。流量はみるみるうちに増え――ついに流出口である小窓が耐えきれなくなり、壁が大きく崩壊した。そこからさらに大量の魔力が噴出し、怒濤のように――しかし音はなく――空中を流れていく。
ミスティンキルは青い濁流を呆然と見つめながら、これはとんでもないことが起きたな、と思った。だが奇妙なことに、こんな事象に対してなんの感情もわかない。危機感すらない。まったくもって現実味が希薄なのだ。
(塔の中はどうなっているのか。動物が住んでいたが大丈夫か)
むしろミスティンキルにとっては、そのほうが気掛かりだった。だが気持ちを切り替える。
魔力の流れ着く先――すなわちあの結界において、なんらかの魔法が発動されるだろうということは何となく分かる。そのための魔導塔なのだから。だがなにが起きるのか、さっぱり見当が付かない。想像できないゆえに恐怖を感じないのだ。
彼が恐怖を覚えるとしたらそれは、魔法が発動されたその時のことだ。恐るべき結果を認識したとき、はじめて慄然とするのだろう。
「なあ。これはウィムの仕業だと思うか? あんたはさっきウィムのことを、手練れの魔法使いだと言っただろう」
【分からぬな。可能性はあるが明言できない。ここまで大規模な魔法事象を起こすには、果たしてどれほどの力量が必要とされるのか――それともただの一人で発動できるものなのか――わしには分かりかねる。魔法使いではないゆえに】
「……そうなのか。おれも分からねえ。魔法の知識のひとつすら、ものにできていない。それなのに『魔導を継承した』などよく言えるもんだ、おれは」
ミスティンキルは自嘲して腕を組む。青い激流の、その先端を目で追いながら。
【ウィムリーフ同様、ぬしは大きな魔力を備えておる。ぬしらは月の界にて大事を為し遂げた身。二人の力の強大さは、我が王も認めている。忌憚《きたん》なく言うと、ぬしらの魔力はともに、世界に影響を及ぼすほどに大きいのだ。
【人間はしかし、魔力だけでは魔法を行使できないのだろう。魔法を発動させるにあたっては詠唱なり儀式なり、媒介とするものや助力がなければならない――委細は分からぬが。
【だがおぬしは例外だ。『そうあれ』と望めばそのとおりに魔法を行使できる。間違いなく、人の身としては過ぎた才能だ。天賦の才能を持つ魔法使いは、歴史上何人もいたことだろう。ぬしはそういった魔法使いと肩を並べる可能性は持っている。だが決定的に及ばない点が二つある。分かるか? 考えてみろ】
「ひとつはさっき言った。魔法の知識がねえってことだろう。もうひとつは……」
なにか言い出そうとしてミスティンキルは考えあぐね、黙ってしまった。
【経験だ。知識と経験がおぬしには決定的に欠けておる。ぬしは月で魔導を継承したと言った。それは認めるが、本当の魔法使いになったとまでは果たして言えぬだろう。本来ぬしはまだまだ学ぶべき立場なのだろうよ】
「……『ウェインディルを探せ』っていうのはそういうことなんだな……」
ミスティンキルは、ほぞをかむほかない。悔やんでももう遅すぎる。この現状を、これから起こりうる現象を、どうにか打破せねば先はない。ウィムリーフに会うこと。まずはそれだ。結界の領域において、どのような魔法が発動されようとも――
床の揺れが収まった。ミスティンキルが身を乗り出して下方を見ると、魔力の放出が止んだことが分かった。その流出口は大きな洞《ほら》と化している。周囲の外壁は魔力の大量放出により損傷し、構造がかなり脆《もろ》くなっているようだ。石のかけらがぽろぽろと落下していく。その数は次第に多くなっている。
「なあ、おい。ここにいるとまずいんじゃねえか? この塔、崩れ落ちるかもしれねえぞ!」
アザスタンも肯定した。
【魔導の塔が、いよいよもってその役割を終えたことを意味するかもしれん。どうする。わしはいつでも羽ばたけるぞ】
その時――
「――!」
ミスティンキルは、はっとなった。遠方の闇の中、三つの方向で閃光が続けざまに走るのを確認したからだ。
◆◆◆◆
――ドン!
――ドン!
――ドン!
光から遅れることしばらく、立て続けに爆発音が風と共にここまで伝わってきた。
発生源はどこかとミスティンキルが探ってみれば、果たして彼が思ったとおり、それは三つの魔導塔だった。ここ、ヌヴェン・ギゼの魔法図象が青く発光しているのと同様に、遠方に位置する兄弟の塔はそれぞれ赤、緑、黄に彩られている。
それからミスティンキルは、鮮やかに煌めくものが三つの塔からほとばしるのを見た。あれらもまた、色を帯びた魔力そのものだろう。空を伝い、四つの塔が結ぶ中心点――結界の地――を目指して猛烈な勢いで押し寄せていく。四本の濁流がぶつかり合うまでそう時間はかからない。魔力同士が衝突したとき、なにが起こるのだろうか。そして、ウィムリーフはどうするのだろうか。