落ちてきた将軍
第10章 くノ一・蘭の苦悩
明けて、正月8日。
九州では珍しく、白銀の世界が広がった。雪に慣れていない九州の人間にとって、雪は交通パニックを引き起す。北の人々と違い、降雪に備えて、チェーンを車のトランクルームに装備している者は少ない。また、仮に装備していたとしても、つけ方を知らない者が多いのは否めない。
蘭は、焦りを感じていた。今すぐにでも、あの大楠の下へ行き、召喚の術で龍を呼び出さなければならない。そして、徳川家慶を江戸へ連れ戻す。将軍家斉の上意である。上意とは、命を代償に遂行しなければならない、将軍家斉直々の特命である。
しかし、気が乱れ、召喚の術が使えそうにも無い。蘭は、精神を極限まで統一するために、夜が明け切れないうちから、庭先に出て、印を結んだ。
蘭の頭、肩には雪が積もり、吐き出す息すら凍るようだった。そんな姿を、家慶はじっと見守っていた。自分を江戸へ戻す事ができるのは蘭しかいないのだ。家慶は、何も言わず蘭の気が満ちるのを待つ事にした。
家慶はソファに座りなおすと、蘭が持ってきた剣を持ち上げてみた。見事なまでに蒼く光を放っている。これが瑞剣か、と思った。己がこうして、手にしているという事は、将軍になるという事だろう。剣を傾けてみた。光が玉の様になって零れ落ちる。後ろから声がした。
「凄くキラキラしてますね」
「む・・・綾乃殿か・・・お目覚めか?」
「はい・・・蘭さんは?」
「庭で心を静めている」
「えっ!・・・こんな寒いのに?」
「寒いから・・・だよ。・・・綾乃殿」
「はい」
「すまぬが、この剣を巻く布が欲しい」
「サラシで良いのですか?」
「絹じゃ・・・絹は無いか?」
「シルクか・・・あ、私の帯があります。それで良いですか」
「うむ・・・かたじけない」
綾乃は、箪笥の中から絹帯を出すと、家慶にさしだした。家慶は、その帯で瑞剣を巻き込み、組紐で固く縛った。