落ちてきた将軍
綾乃は、バッグからキーホルダーを取り出すと、紀子に渡した。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。気をつけて」
二人は、手ぶらで出て行った。その後姿には、警戒心や、危機感の欠片すら窺えない。綾乃は、その後姿を見送ると、小さく溜息をついた。
庭先の駐車場から、車のエンジン音が響いてきた。そして、暫くすると、次第に路地の奥へと消えていった。
家慶は、瞼を閉じ、腕組みをして、じっとしている。何か思案しているのだろう。綾乃は、その姿を見つめたまま、椅子に腰を下ろした。
もし、反対だったら、どうだろうかと思う。もし、自分が過去、もしくは未来へ飛ばされたら・・・と考えると、不安で堪らないだろうと思う。綾乃は、目の前の家慶が、何だか不憫に思えた。
不憫と思えば、胸の内の恋の種火が、赤く熱した炭に火が点る様に、ぽっと音を出して燃え上がる。胸が小さく締め付けられるのは、きっと、そのせいだろう。
家慶が、もとの時代に戻るのは間違いないだろうと思う。だって、歴史が証明しているのだから・・・・。いや、まて、予想も出来ない事が待っているのかもしれない。
将軍の跡継ぎである家慶がいなくなった江戸城では、大騒ぎになっているに違いない・・・。家慶の友人だと言う忠邦は、無事なのだろうか・・・。責任は重い。
テレビの時代劇でも、こんなシーンは見た事が無い。しかも、これは現実なのだ。それを思うと、胃の奥が締め付けられる錯覚を覚え、脂汗が出てくる。そんな事をあれこれ考えているうちに、綾乃は家慶が愛おしく思えてきた。
綾乃は別段、気が多い女では無い。ただ、直感で、これっ!と思ったら、それしか見えなくなる。女としては可愛くもあるが、危険な性格でもあった。その直感が、チクチクと、綾乃の小さな胸を破って、弾けようとしていた。