落ちてきた将軍
微かに、下草を踏む音がした。忠邦は、静かに刀の鍔を親指で押し出し、足の指を広げ、身構えた。すると、縁の下から、一匹の地ネズミが現れ、忠邦の顔をじっと見つめた。地ネズミは、ぷいっと背中を向けると、一目散に竹林の中へ走り去った。
「ネズミか・・・・」
それより半時前、江戸城、二の丸。門の前には、槍を持った番人が、寒さに耐えながら、目を光らせていた。さらに、二の丸の周囲を、ぐるりと、見回りが固めている。
ネズミすら入ろうものなら、槍で一刺しであろう。
だが、既に侵入者がいた。くノ一、蘭である。
蘭は、二の丸の屋根の上で、落ちてくるボタン雪を眺めていた。蘭の顔に落ちたボタン雪が、静かに溶けていく。呼吸を整えていた。そして、気配を完全に消し去った。
蘭は、二の丸の屋根を、まるで猫が走るように音も無く動いた。蘭は懐から礫(つぶて)を取り出すと、門の脇に向かって投げた。礫は、二の丸門の横におち、霧のような煙を発した。その霧は、緩やかな風に乗って、二の丸門へと漂っていく。
二人の門番が、同時に大きな欠伸をしたかと思うと、膝を折って、その場に崩れ落ちた。
すると、一匹のネズミが影の中から現れ、門の前に走り寄った。ネズミは、見る見る大きくなり、人の姿になる。蘭であった。
蘭は、錠に細い針を刺し込むと、静かに錠を外した。枯葉の落ちる音程も立てない。
二の丸に忍び込むと、暗闇の中を、ひたひたと走り抜ける。奥まった所に、葵の紋が入った刀箪笥が見えた。赤い組紐を解いて刀箪笥を開けると、片っ端から鞘を抜いていった。
灯りはと言えば、僅かな雪明りだけ。その微かな雪明りを受けて、青白く光る刀を選んだ。恐らく、妖刀・村正。そして、もう一振りは、全く光らない、無銘の錆びた刀。