落ちてきた将軍
「町人か・・・そうよね・・・私は町人。お武家の娘ではないのだわ・・・いえ・・・待って・・・確か、ご先祖様は、黒田五十二万石のお侍だったと聞いているけど・・・そうだ!聞いてみよう・・・って、未だ五時!?・・・母さんが起きる頃に電話しよう・・・まずは、ご飯の準備、準備」
家慶は、昨夜、結局食事も摂らずに畳の上で寝てしまった。あの超常現象の渦に巻き込まれたのだ。余程、疲労困憊の体であったのだろう。綾乃も同じだった。綾乃は、家慶に毛布をかけると、ソファの上で意識を無くした。
人の為に食事を作るのは久しぶりだ。純一が死に、その後、直ぐに司郎と結婚。その結婚も、一年で破局を迎えた。
一人暮らしの食事は、味気の無いものだ。誰かの為に食事を作るという行為は、綾乃の女心の泉に小さな雫を落とし、その波紋は優しく広がっていった。
いつに無く心躍るのはそのせいだろう。しかし、綾乃自身は、その事に気がついてはいない。なんとなく・・・楽しい。ただそれだけの感情に過ぎない。
しかし、この時、綾乃の恋心に火がついたと作者は感じる。この場で、綾乃を前に「恋に落ちたか?」と尋ねれば、口を尖らして否定するに違いない。
聞き方を間違えれば、平手打ちが飛んでくるかも知れない。
まあ、そこまではしないだろうが・・・。だが、恋とはそういうものではないのか・・・。その証拠に、綾乃は、鼻歌交じりで、食卓に朝食を並べていった。
突然、風呂場から呼ばれた。
将軍様のお呼びである。綾乃は小走りで浴室に向かい、両膝を着くと、ドア越しに声をかけた。
「お呼びですか?」
「綾乃殿・・・勝手がわからぬ・・・教えて欲しい」
「何でございましょうか」
「このツルツルしたものは何じゃ・・・何やら良い香りがする・・・まるで、綾乃殿の香りと同じじゃ」