落ちてきた将軍
この、凍えるような冬の朝。上半身、裸であった。一体、どれだけの時間、木切れを振り続ければそうなるのだろう。その背中、肩、そして頭から白い湯気が上がっていた。汗の匂いが嗅げそうな程に「生命」を生々しく感じた。
その「生命」の生々しさが、綾乃に、現実を受け入れさせた。一晩眠ったら、悪夢は醒めるかとも思ったが、昨日、経験した超常現象も、目の前の徳川家慶も、全てが自分の身に降りかかった現実なのだと、しっかり、認識することが出来た。
だが、認識できたとして、綾乃に何かが出来るわけではない。綾乃は、家慶の凛々しい姿を、ただ見つめていた。そして、暫し思案すると、はたと思い立ったように、箪笥へ駆け寄って引き出しを開けた。
箪笥には、祖父母の着物が大切に仕舞ってある。綾乃は、その中からできるだけ派手目の着物を選んだ。
「えっと・・・多分・・・あったはず・・・新品が・・・あっ!あった!」
綾乃は着物一式を取り出すと、帯を重ね、その上に真っ白な足袋と褌を重ねた。綾乃は、思い立ったら、頭より体の方が先に動く性質である。
風呂を沸かし、朝食の準備に取り掛かった。手の凍るような冷たい水で米を研ぎながら、一昨日からの信じられない出来事を思い起した。
一体、これから、どうなるのだろう・・・という不安が、胸の奥底で頭をもたげては、膨らんでいく。また、それとは反対に、時空を超えて飛ばされてきた家慶の姿は、とても清清しく、自分の澱んだ心が、少しだけ洗われたような気がした。
正直に言えば、家慶の尊大な態度には腹も立つ。しかし、殿様であり、実際に歴史に名を残しているのだ。ということは、ここから戻って将軍になった・・・事になる。
これから先、何かが起こる。それが何かは予想もつかないが、その「何か」によって、家慶は江戸に戻り、いずれは家斉に次いで将軍になるのだわ・・・と思うと気が楽になった。