落ちてきた将軍
「くっ・・・うううっ!」
綾乃の恐怖は絶頂に達し、戦慄で息が止まりそうだった。
「ううっ・・・そこの少年・・・手を貸してくれ・・・起き上がれん」
「ひっ!」
綾乃はそう叫びながらも、ゆっくりと首を回した。体は振るえ、歯がカチカチと音を立てているのが、自分でも分かった。其処には、楠木の枝ではなく、ちょん髷を結ったサムライが、絢爛豪華な着物を纏って、横たわっていた。
「済まぬが・・・肩を貸してくれないか・・・足をくじいたようじゃ」
綾乃は、恐るおそる、サムライに近づくと、側で肩膝をついた。
「だ、だいじょうぶ?・・・気がつかなかったわ・・・肩に掴まって・・・」
「うむ・・・龍と戦って・・・放り投げられたのじゃ・・・」
「龍?・・・あの雲の中にいる・・・?」
綾乃は、暗雲立ち込める、室見川上空に眼をやった。雲が消えている。風も止んでいた。
墨を垂らした様に立ち込めていた暗雲が、いつの間にか薄雲に変わり、その隙間からは、真冬の貴重な陽が零れ落ちている。
室見川は静けさを取り戻し、水面は、落ちてくる陽の光を掴んでは、キラキラと煌いていた。
「龍が・・・・雲が消えた・・・」
「お前も、龍を見たのか・・・」
「ええ・・・この目でハッキリと・・・凄く大きくて・・・怖かったわ」
「ん?・・・お前・・・少年かと思いきや・・・か細い肩・・・女であったか」
綾乃は、死にそうなまでに味わった恐怖に替わり、目の前の派手なサムライ装束の男に可笑しさを覚えると、不思議と安心感を憶えた。精神の極限を感じた故の感情なのかもしれない。
普段の精神状態であれば、ちょん髷を結い、殿様のような装束の男から声を掛けられても、見て見ぬ振りをするのが必至だ。だが、突然、恐ろしい嵐に見舞われ、龍が出現し、しかもあの、赤くて金色に輝く眼で、射られるように睨まれた。食べられると思った。
綾乃は、未だに軽い錯乱状態である。目の前のサムライを相手にしながら、夢なら速く醒めてくれと心の中で叫び続けていた。