四神倶楽部物語
京都は魔界都市。そして、時は今から約1,200年前、都は長岡京でした。その頃、大洪水が起こり、また疫病が蔓延(まんえん)していました。
これにより桓武(かんむ)天皇は、西暦794年に山背国(やましろのくに)に遷都しました。
山背国は三方山に囲まれた地であり、四神相応(しじんそうおう)の地相として理想です。
背後にある北の船岡山(ふなおかやま)の玄武(げんぶ)。
それを背にして、左に東の鴨川(かもがわ)の青龍(せいりゅう)、そして右に西の山陰道の白虎(びゃっこ)。
さらに、南に巨椋池(おぐらいけ)の朱雀(すざく)。
山背国はそれら四神(しじん)に守られた地でありました。
そして、その北東の鬼門には比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を配しました。このような地を、桓武天皇は平安京としました。
しかし都では災いが収まりません。その上に、桓武天皇は実弟の早良親王(さわらしんのう)の怨霊に悩まされました。そのために、鬼、魔物、妖怪を都へと立ち入らせないように、京都御所(ごしょ)/比叡山延暦寺/貴船(きぶね)神社の三点を結ぶ三角形で結界(けっかい)を張りました。
要は、その中は聖なる地。そしてその外は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界なのです。
しかし結界を張ったとは言え、いろいろな所に中と外が繋がる抜け穴がありました。そのために、鬼、魔物、妖怪の魑魅魍魎が都へと出入りをしていました。
その時代から約1,200年の歳月は流れましたが、この時代でも抜け穴は存続しています。そして、現代の京都の町中を今もゴロゴロとうろついています。
そんな京都の洛中/洛外を繋ぐ抜け穴の一つが、一条戻(いちじょうもど)り橋です。
それは洛内から魔界へと繋がっている渡橋(わたりばし)。その橋にはいろんな言い伝えや伝説があります。
一条戻り橋、元はと言えば、土御門橋(つちみかどばし)と呼ばれていました。
延喜18年(西暦918年)、文章(もんじょう)博士の三善清行(みよしきよつら) の葬列がこの橋を通りました。その時、紀州熊野から馳せ帰ってきた息子の浄蔵(じょうぞう)が、橋の上で棺(ひつぎ)にすがって泣き悲しみました。
そしてお経を唱えたところ、三善清行が一時蘇生しました。そんな出来事があって、その後、この橋は「戻り橋」と呼ばれるようになったのです。