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月の依る辺に

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◇◇◇◇




食後のマッタリに勝るものはこの世にないんじゃないだろうか。
実に幸せだ。
マシュマロのように体が埋もれる我が家のソファーは、実に快適な時間を俺に提供してくれている。
このまま眠りの海に溺れられれば尚いいが、悲しいことに俺の場合は本当に溺れるような苦しさを味わうだけなんで我慢する。
だが、そんな時間を電話のベルがぶっ壊す。
…もうちょっと空気読めよ、電話も掛けてきた奴も。
「兄さん、私出れないから取って~。」
渋々起きて受話器を取る。
頭は半分飛んでいるが、問題ないだろう。
「はい、朱前ですが。」
「依月か?わたしだ。」
あぁ、くそ。
なんでこういうときにかけてくるかね、この怠慢主治医は。

「んで、何の用っすか?」
「なんだ、随分なご挨拶だな。わたしとの会話はそんなに嫌か?」
「できるなら今すぐに電話を切りたいっすね。それと飛んでったおれの幸せを返してもらいたいです。」
「こんなんで飛んでくもんは幸せとは呼ばんだろう。紛い物を消してやったんだ、感謝してほしいくらいだな。」
相変わらずああ言えばこう言うな、このヤロウ。
「で、本当に何の用なんですか?」
「ん?ああ、最近お前診察に来ないから、その確認だ。元気にやってっか?」
「すこぶる元気なんで診察なんか必要ないっすよ。金の無駄です。」
「まぁお前の体調なんてどうでもいいんだがな。」
なら最初からそう言え。
「ま、あれだ。気になったのは眼だよ。問題ないか?」
「今のところは。」
「夢の方は?」
「悪化はしてないですよ。」
「つまり、改善もしてない、と。」
「まぁ、そうですね。」
かなり適当に答える。実際実のある話じゃないし。
「あぁ、それとわたしがよこした子はどうだった?何かわかったか?」
いきなり話題が変わる。かなりのマイペースっぷりだ。こういうところは鳴澤さんに似てるな。
「いや、何も。彼女自身は健康そのものでしたよ。
まぁ、確かに何かおかしくはあったですけど。てか、自分でやってくださいよ。なんで俺に患者をまわすんすか、俺も患者なのに。」
「お前のどこがわたしの患者だ、全く。診察に来ない癖に。
 しかし、そうか。何も異常が見えなかったんだな?そうすると、彼女の症状の原因は不明のままか。」
「確かに、俺の眼じゃ視えなかったっすけど、ありゃ誰の目で見ても十分異常ですよ。あんなん、今までよく周囲の人は不思議に思わなかったっすね。」
「? どういうことだ、ちゃんと最初から説明しろ。誰の目にも“異常”とは?」
質問の意図を掴み損ねる。
どういうことだ?
この怠慢医師は悪態はつくが、こういう嘘はほとんどつかない。
それに、なにより遠まわしな聞き方をかなり嫌う人間だ。
てことは、考えられるのは―
「継さん、もしかして“あれ”見てないんすか?」
憮然とした声で、何のことだ、と返ってきた。
……マジか。本当に何も知らないようだ。
「おい、依月。先程からお前の言ってることがわからない。
 そして、お前のその遠まわしに訊いてくる姿勢も気に食わない。
 さっさと話せ。お前の知ってることを洗いざらいな。」
圧縮された良く通る声が、耳を通り過ぎて心も貫通する。
顔も姿も見えないくせに、遠慮のない剥き出しの殺意と視線が、確かに電話口から感じられる。
自分の患者に殺意を向ける医者なんて聞いたことねぇ――と言い切れないのが悔しい。
この前そういう殺人事件あったしなぁ、この辺で。
…あ、なんか受話器がギロチンに見えてきた。
「おい、何黙っている。答えろ、イツキ。」
ギロチンの縄を握る処刑人もとい殺医の声で我に返る。
さて、どう説明したものか。とりあえず何か喋ろう、と逃げまくる言葉を追い立てる。と、
「ふん、まぁいい。電話ではお前の顔が見えんしな。とりあえず、明日うちの病院に診察がてら来い。…いや、やはり、昼間に来い。昼の12時にわたしの診察室に来い。 わかったな。」
そう一方的に会話を終えると、電話は切られた。
…あぁ、ギロチンが落ちた。
電話でさえあんなに怖いのに、対面なんてしたらもう、俺は死ぬか男をやめるかしかなくなる。
はぁ、本当に俺の日常(へいわ)が彼方へと飛んで行ってしまった。
それも特大満塁ホームラン並に。



作品名:月の依る辺に 作家名:高崎 彰悟