月の依る辺に
◇◇◇◇
寝起き、最悪。
どうしてか、今日は相当長くいた気がする。
おかげさまで、2時間ぐらいしか寝た気がしない。
寝足りないくせに、眠気がもう綺麗サッパリない。
というわけで、いつもより20分ばかり早いが、起きて優陽を驚かすとしますか。
「あれ、今日は早起きだね。何かあるの?」
朝日とともに襲撃してくる宿敵は、驚きもせずに冷静に挨拶を返してくる。
…もっと、こう、驚いてもいいんじゃないか?自分で言うのもなんだが。
「でも兄さんが早起きしちゃったから、今日は目覚ましなしか…。」
「今日もやるつもりだったのかよ。」
逆にこっちが驚く。それを見て、
「当たり前でしょ。あ~あ、私あれ結構楽しみだったのになぁ。何で早く起きてくるのよ。楽しみなくなっちゃったじゃない。」
そう不満気な声で理不尽な非難を向ける宿敵。
…何故に俺は文句を言われてる?
褒められることはあっても、文句言われることじゃないよな?
かなり納得いかないが、とりあえず昨日の二の舞になるのは防げたので、
まぁ、それでいいとしよう。
「何突っ立ってるの?朝ごはん食べよ。」
悩ませている張本人は、言うだけ言ってすっきりしたのか、もう不機嫌ではない様子。
だが、どんな悩みも空腹にはかなわない。
俺は考えるのはやめて、久々に優陽と一緒に朝御飯を食べた。
放課後、昨日の話通り、保健室に向かう。
朝早起きしたせいか、授業中終始眠かった。すぐ家に帰りたい気分なのだが、すっぽかすと明日また連れ込まれそうだ。
一階に降り、保健室の扉に手を掛けようとした瞬間、自動扉のようにひとりでに開いた。
「よし、ちゃんと来ましたね。さ、入ってください。」
俺が今来ることを、わかっていたかのように扉を開けて、中に招き入れる鳴澤さん。
「もしかして、ずっと俺が通るかどうか、見てたんですか?」
さすがにそんなことはないだろうけど。
「ん、そんなことはしてないですよ。ただよく聴く足音だったからわかっただけです。」
…余計すごいよ。てか、本当にできそうで怖いな、この人。逃げたら昨日みたいに、瞬時に首捕まれたんだろうな…。
律儀な自分に感謝。誠実ってのはいいことですね。
「じゃ、さっそく要件というか本題に入りましょう。君に会ってもらいたいのは、この子ですよ。」
先生は綺麗なその手で、俺の視線を自分の後ろへと導いた。
そこには、自然に脚を揃え、少し弱い視線でこちらを見る少女が座っていた。
はっきりいってかなりの美人だ。目は大きく、優しさを表すかのように円く、澄んでいる。
鼻は細くすらっとしていて程よく高く、口は微笑んでいるかのように、孤を描いている。
髪は濡れたように黒く肩甲骨あたりまでの直毛。首筋は白く滑らかで、体のラインは驚くほど美しい流線型を描き、健康的で細い脚が更にそれを際立たせていた。
まったく、頭から爪先まで綺麗な、美少女である。
―が、そう思えない何かがこの少女にはある。これほどの外見の良さを覆ってしまう何かが、この少女には感じられる。だがそれよりも―
――意思(・・)を(・)感じない(・・・・)。
人と人が対したときに発する、視線や意識といった意思がほとんど感じられない。
まるで人間と同じ構造を持った人形と目が合っている気分。
本当は生きていないのではないか、そう思ってしまうくらいに儚く見える。
「ふふっ。そんなに見つめて。いくら美人だからって、ずっと見つめていてはだめですよ。
彼女が困っているでしょう。」
とても楽しそうに笑いながら、俺の顔を覗き込む先生。
「別に見つめてませんよ。ただ――」
―止める。本人の前では言えないか。
「ただ、なんです?」
鳴澤さんが、自然に先を催促する。
「―いや、何でもないです。」
俺は不自然にごまかしたが、ただ、そうですか、といって鳴澤さんはそれ以上訊いてこなかった。その横顔はいつものように微笑んでいる。
「まぁ、とりあえず君も座ってください。立ったままでは話しにくいでしょうから。」
そういって、俺は近くのベッドに座らされた。
丁度彼女の正面で、全身が良く見える。
…やっぱ、何かおかしい。
人がいるのに、人がいない。いや、とても希薄に感じる。
彼女は確かに、今俺の目の前にいるんだが、そこには彼女自身をあまり感じないのだ。
そもそも人はその人特有の“空気”を纏っている。いわば雰囲気だ。
それは人がもっている心のように、その人を表現する。
その“空気”は、濃かったり、甘かったり、冷たかったり、痛かったりと、その人の過去やら今やら性格やらの影響を受けて、様々に形を変え、色を変え、匂いを変える。
それに同じものなんてない。なにせそれはその人の人生みたいなもんだから。
他人と同じ経験をできる人はいないし、たとえできたとしても、価値観が異なれば、それは異なった経験になる。
つまりは、その“空気”は固有で、その人の今までの経験のブレンド、みたいなものだ。
だから味がなければ、逆におかしい。生きている以上、そこにはなにかしらその人の人生が反映されているはずなんだ。
だが、彼女には、それが感じられない。
彼女の“空気”は、山頂の空気のように澄み切っている。
それはとても奇麗で、何もない。彼女を語るものが、何も。
…そうか。
俺はさっき、彼女を何かが覆っている、と感じた。
だが、実際は真逆だ。
彼女は、纏う“空気”があまりにも澄んでいるから、他人に気づかれないだけだ。
何かが覆っているなら、他人は彼女に気づく。
だが、澄みきって大気に“空気”が溶け込んでいるなら、気づかない。いや、誰も気づけない。
そこに彼女自身はなく、あるのは空気だけ。
人生を持たない人間は、存在していないに等しいからだ。
視るまでもない。
この時点で、彼女はもう十分異常だ。
自分自身を生きていない人間なんて、本当にただの機械か人形だ。
それは“ある”のであって、“いる”のではない。
だが、今そんなことはどうでもいい。
こんな人は珍しいが、俺が関わる必要はないはずだ。
精神病院にでも入院させて、一生呆けさせておけばそれで済む。
そうしないってことは、彼女には特別な何かがあるのだろう。
そうやって、俺が考えに浸っていると、
「…どうしたの?」
いきなり目の前に人を感じた。
「えっ?」
驚きのあまり言葉を失う。…勿論話しかけられたことに、ではない。
どういう理屈だろうか、先程まで澄み切って何もなかったのに、いまでははっきりとそこに“彼女”がいた。
わけがわからない。というか、意味がわからない。
まるでスイッチが切り替わったかのように、彼女は人間として機能していた。
さっきまで感じられた儚さなど微塵もなく消え去り、本来の美しさと、彼女の性格であろう凛々しさが、熱のように俺の方へ放出されている。
ストを起こしたチンケな頭は、何一つとして理解も認識もしてくれない。―いや、一つは嫌でも、頭がなくても理解した。
やはり、異常だ。さっきの何倍も今の方が異常だ、と体が理解して、俺は何故か身震いを感じた。
だが、そんな俺には気づかずに、彼女は
「えっと、私、何か変かな…?」
と、確かめるように上目遣いで訊いてきた。