Largo 〜ゆるやかに〜
輔の所属するオーケストラとの初リハーサルは一週間後。そして、本番はその翌日。
貢平は、ずっと輔からの連絡を待っていた。
携帯の番号は変えていなかったが、念のため、それも書いておいた。
だが、連絡は無いまま、リハーサルの日を迎えた。
貢平が、指揮者の永野薫とともにリハーサル会場に入ると、オーケストラのメンバーが拍手で迎えてくれた。
ざっと団員を見回し、視線が一ヶ所で留まる。
雨宮輔先輩。
変わっていない。
冷たくさえ見える整った容貌も、纏っている華やかな雰囲気も。
貢平は輔をじっと見つめた。
だが、輔は、一度も貢平の方を見なかった。
永野に促され、指揮台とファーストヴァイオリンの間、演奏する位置に立つ。コンサートマスターと握手をする。
「よろしくお願いします」
挨拶を交わす。
永野から全体に紹介され、頭をさげる。
今回このオケに呼んでもらえたのは、このオケの音楽監督も務める永野が強く貢平を推してくれたからだと聞いている。
挨拶が終わり、軽くチューニング。
永野が指揮台に上がる。
「じゃ、ヴァイオリンコンチェルト。一楽章最初から」
永野のタクトで、オーケストラの演奏が始まる。
ああ、先輩の音だ。
この曲は、最初、ヴィオラとチェロとファゴットがメロディーを受け持つ。
貢平の耳に、輔のヴィオラの音が鮮やかに流れ込んで来た。
先輩の音だ…
暖かく、豊かで深い音。
先輩が纏う冷たくて華やかな空気とは正反対の音。
だから貢平は、輔が本当は暖かい人間だと知っている。
しばらく、オーケストラだけの演奏が続き、そしてヴァイオリンソロが出てくる。
貢平は、ゆっくりとヴァイオリンを構える。そして。
フォルテで、第一音。
そのまま、上昇音形。一気に駆け上がる。重音。駆け降り、再び駆け上がる。
***
その、重厚な演奏を聴いて。
輔もまた思った。
ああ、貢平の音だ…
外見も、あまり変わっていなかった。相変わらず、純朴な田舎の青年。
華やかなヨーロッパで暮らしているんじゃないのか、と突っ込みたくなった。
だが、その演奏は。
昔の比ではなかった。
感覚だけで演奏しているようなところがあった貢平の音楽。だが今は、きちんと計算された音楽だと感じさせる。
上手くなった。
とんでもなく、上手くなりやがった。
ほら見ろ。俺と音楽、天秤にかけるような馬鹿なマネしなくて、本当によかったじゃねーか。
貢平の演奏に、オーケストラが引っ張られる。
だが、こちらもプロだ。負ける訳にはいかない。
いつの間にか、輔も、熱くなっている自分に気づく。
何度も弾いたことのあるこのコンチェルト。こんなに熱くなるのも久しぶりだ。しかも、まだリハーサルだというのに。
けれど、とても気持ちがいい…
コンチェルトのリハーサル終了後は、オーケストラだけでメインプログラムのシンフォニーのリハーサルがあった。
すべてのリハーサルが終わった後、輔はいつもの数倍の疲れを感じたが、それは心地よい疲れだった。
***
楽器を片付ける輔に、貢平が近づく。
コンチェルトのリハーサルが終わった後、貢平はオーケストラのリハーサルを見学していた。
「先輩…」
「…久しぶりだな」
言葉を交わしながらも、輔は楽器を片付ける手を止めない。視線は、楽器を見つめたまま。
貢平は思う。
やっぱり、返事が無いことが先輩の返事なんだ。
「雨宮。メシ行こう」
向こうから声がかかり、輔はそちらを向く。
「いいですよ。いつものところ行きます?」
にこやかだが気持ちを伴っていない、どこか表面的な笑顔。それは、他人に向けられるところは散々見てきたが、今までは貢平には向けられることがなかった表情だった。
「じゃ、な。お疲れ」
貢平の肩を叩いて、輔が初めて貢平の顔を見た。さっきの笑顔のまま。
輔は楽器ケースを担いで、さっさと練習場を出て行く。
輔に声をかけた団員、チェリストの山下圭吾が、貢平にも
「お疲れ様」
とにこやかに声をかけ、輔を追いかけて練習場を出て行った。
「…お疲れ様です」
貢平はかろうじてその言葉だけを返した。
作品名:Largo 〜ゆるやかに〜 作家名:萌木