Largo 〜ゆるやかに〜
Largo
藤代貢平が、空港から宿泊先のホテルに向かうリムジンバスを降りて一番最初にしたことは、日本の音楽大学在学中の先輩であった雨宮輔に宛てて書いた手紙を投函したことだった。
輔の所属するオーケストラに招かれ、ソリストとしてヴァイオリンコンチェルトを弾くこと、練習で顔を合わせる前に一度会いたいということ。
だが、輔が貢平とはもう二人きりで会うつもりはない、と言うなら、それを受け入れるつもりでいるし、個人的に会って欲しい、なんてことはもう決して言わない。きれいさっぱりただの後輩にもどるから、と。
三年前、まだ大学一年生だった貢平は、とある国際コンクールで優勝し、そのまま留学を決めた。
その時、輔からはきっちりと別れを言い渡されていた。
だから、この三年間、一度も輔に連絡しなかった。
けれど、決して忘れることは出来なかった。
今回、貢平が日本にもどったのは、輔が所属するオーケストラとの共演のための一時帰国だ。ホテル住まいだし、実家に帰る予定もない。だから、手紙の差出人には、自分の名前だけを書いて投函した。
実はもう一つ、輔に伝えたいことがあったのだが、それは輔に会って、顔を見てから話すつもりだった。
***
だが、輔が受け取った貢平からの手紙には。
『ポストに、食べ残しのコンビニ弁当が投入されるというイタズラがあり、そのせいで手紙が汚れてしまい申し訳ありません』
という内容の郵便局からのメッセージがついていた。
『差出人にも連絡を取ろうとしましたが、住所等の記載がなかったので連絡がとれませんでした』と。
たしかに手紙からは醤油だかソースだかの匂いがぷんぷんしていた。
封筒にも茶色いしみがいっぱいついていて、中の便箋に何が書かれているのか、判別するのは難しいかもしれなかった。
が、輔は別段、気にしなかった。
それは、貢平からの手紙だと分かった時点で、中に何が書いてあろうと読むつもりがなかったから。
なのに、手紙を読めない理由ができて、ほっとしている自分がいることにも、どこかで気付いていた。
貢平は、輔が三年生の時に入学してきた。同じヴァイオリン専攻で同じ先生に師事したので、そこそこ付き合いもあった。
初めて会った時の貢平の印象は、田舎から出てきたばかりの純朴な青年。
だが、そのパッとしない外見に似合わず、貢平の演奏は洗練されていて、繊細でかつ力強さも併せ持ち、輔は最初から最後まで圧倒されっぱなしだった。
今まで無名だったのが信じられなかった。
ただ、地方出身で、コンクールとは無縁だったと聞いた。
貢平は演奏を終えて楽器を下ろすと、再び何の特徴もない、純朴な青年に戻った。
その時、輔は本気で、貢平が欲しいと思った。
演奏中と普段の人格が同じ、なんて人間はいない。音楽家なんて、舞台上では普段の数割増しで凛々しく見える。
だが、そんな中でも、演奏中の貢平はとんでもなく魅力的だったのだ。
当時、輔はヴァイオリン専攻の期待の新鋭だった。外見も華やかで、男女問わず派手に遊んでいたが、誰にも本気にならない、と大学では有名な存在だった。
誰にも言ったことはないし、これからも言うつもりは無いが、後にも先にも輔が本気になったのは貢平だけだった。
だから、試演会(コンクールなどの本番前の舞台練習の為に行われる演奏会)のあと食事に誘い、ほろ酔いの貢平の部屋に上がり込み、半ば強引に貢平を受け入れた。男とも女とも来る者拒まずで派手に遊んでいた輔が、そこまでしてでも手に入れたいと思ったのも、男を受け入れたのも、初めてのことだった。
実際、輔にはどちらでも良かったのだ。貢平を手に入れる事さえできれば。
華やかで、自信家で、傲慢。
その輔が、貢平の演奏を聴いて本気で貢平に惹かれた。
それと同時に、ヴァイオリンを諦めヴィオラに転向した。
オーケストラで華やかに高音域のメロディーを奏でるヴァイオリン(特にファーストヴァイオリン)に対して、少し音域が低いヴィオラは、セカンドヴァイオリンとともに内声を受け持つ。
渋く、暖かな音色でオーケストラには欠かせない楽器などと言われるが、輔は思う。ヴィオラが好きで転向するヤツなんてほとんどいない、所詮ヴァイオリンを諦めたヤツの集まりだ、と。それは当然、自分も含めて。
そんな思いとはうらはらに、輔はヴィオラでも頭角を現し、大学卒業と同時にプロオケに入団を決めた。しかも副主席。パートで主席に次ぐ実力を認められたのだ。
プロのヴィオラ奏者になって二年。
貢平とのリハーサルの初合わせは、一週間後に迫っていた。
作品名:Largo 〜ゆるやかに〜 作家名:萌木