DEAD TOWN
エリナは、沈む夕陽を眺めていた。今日も一日、無事に終わった。そう感じる瞬間でもある。
生きることは、毎日同じ繰り返し、とはいうものの、だからといって、これほど生きることが苦痛になることなんて他人にはないだろう。朝は決まってやってくる。イヤな朝が。今日は何かが起きるのだろうか。それとも、何も起きないまま、このまま夜が来るのか。そんなことを考え、ここにきて数年が経つ。たった数年なのに、もう何十年もここで生きている感じがする。だから、元にいた世界が今はどんなんだか分からない。いや、もう分かりたくもない。家を出た時から、家から逃げ出した時から、私は生きることを諦めていた。それよりも、もう既に生きていなかったのかもしれない。現実の世界から逃げ出し、どこか死ぬ場所を求めていたのかもしれない。エリナは、ふと昔住んでいた街を思い出した。けれど、すぐに掻き消した。虚しすぎる空想は、今は必要ない。思い出したくない想い出なんか、ゴミと同じ。捨ててしまえ。実の両親が私にしたことと同じように。捨ててしまえ。エリナは、小さく呟いた。
愛されないものは、どこに行っても愛されない。ジェイクがここに来た時、よく口ずさんでいた言葉だ。少女時代の私には“愛”という意味が良く分からなかった。けれど、今頃になってやっと言葉の意味が分かるようになった。生まれた時から、私は愛されていなかった。だから、両親に捨てられた。なのに、捨てる神あれば、拾う神あり、というように、私は知らない家の子となった。初めて、これが家族というものなのだと知った。これが、幸せというものなのだと。だけど、その幸せも長くは続かなかった。今でいう虐待が始まった。暴力や精神的虐待だけだったある日、思春期に入り体つきが大人になり始めた頃、養父からの性的虐待。私は我慢が出来ずに、ある日の夜、皆が寝静まった頃逃げるように家を飛び出した。その夜は、どしゃ降りの雨が降っていて、真っ暗な夜空には稲妻と雷が鳴っていた。だから、ちょっとした物音をたてても誰も気づかなかった。私は、家を出てから走った。走って、走って、走って、遠くまで逃げた。捕まりたくなかったから。捕まったら、もう二度と外の世界に戻れなくなりそうだったから―――。
簡単な荷物ひとつで、所持金も無いに等しい。そんなエリナは、勿論、遠くまで行けるはずもなく、パトロール中の警察に見つからないように隣町の公園に身を隠していた。空腹と寒さで、エリナは凍えていた。このまま死んでしまうことも覚悟していた。けれど、あの家に戻らなきゃいけないんなら、このまま死んでしまった方がまだましだと思った。そう思いながら、エリナは雨ざらしの遊具の中で唯一雨宿りが出来る場所にひっそりと身を隠していた。
誰かの足音に、エリナは気づいた。ピチャ、ピチャ、と音を立て、ゆっくり自分の方へと近づいてくるのが分かった。エリナは、体を強張らせた。もう早、見つかったのか、と諦めにも似た脱力感が襲う。
エリナは膝を抱え、やがて現れた両足を見つめていた。もうダメだ、と思った。震える躰は、更に震えた。ガクカグ、ガクガク、と―――。
「Here, what do you do?(ここで、何をしている?)」
聞きなれない言葉。と同時に、エリナの目線に合わせるかのように現れた、大きな体をした初老の男。薄暗い街灯で、どんな顔をしているのか分からなかった。けれど、真っ白い肌の色だけは今でも鮮明に覚えている。エリナは、その顔を見て、警察でも、養父母でもないことに安堵した。
「ここで、何してる?」
男は、エリナにたどたどしい日本語で喋りかけてきた。けれど、エリナは何も答えなかった。もし答えてしまえば、警察に通報されてしまうかもしれない。そう思ったのだ。
「ダイジョーブ。ダイジョーブ。私は、何もしない。だから、ダイジョーブ。Trust me」
男はそう言って、エリナにハンカチを渡した。
「あ…りがと…」
エリナは、寒さで震えていた。歯が小刻みに震えて、思うように言葉にならなかった。
「良かったら、私と一緒に来ませんか?君さえ良ければね?」
そう言って、男は立ち上がった。そして、エリナに大きくて肉好きの良い掌を差し伸べる。
エリナは、迷わずその手を掴んでいた。温かくて柔らかなその手を握り、エリナは涙が溢れた。大人たちを信じない。そう決めていた。だから、何があっても泣かない。声も上げない。ただただ毎日をやり過ごすだけ。そして、自分に力がもてた時は、その時は報復する。それだけが、生きる糧になっていた。そんな無感情である自分に泣く力があったのだと知り、エリナはまだ自分が生きていたいことに実感する。
死にながら生きることは、とても大変だった。毎日が地獄で、毎日が耐え難い現実の嵐。周りの大人たちは見て見ぬふりをした。唯一、頼れる存在の先生にも拒否をされ、無視をされた。だから、大人は信じない、と決めた。裏切るから。何もしてくれないから。所詮は他人事なのだ。だから、面倒くさいことには首を突っ込まない。周りには、それが蔓延(まんえん)していた。
得体の知らない男が怖くなかったと言えば、嘘になる。けれど、もう頼れる人は他にはいない。この男についていくか、それとも警察に捕まり、また地獄のような毎日を過ごすか。選択はどちらにせよ、自分は地獄の道しか残っていないのだ、とエリナは思う。どうせなら、知らない街で、誰にも知られずに死にたい。もうこの街にはいたくない。この街を捨てたい。エリナは、そう男に告げた。男は無言で頷き、エリナにスーツの上着を着させた。
「それじゃ、行きましょうか」
エリナは、男の大きくて温かい掌をギュッと握った。今度は、私は捨てる番。実の両親も、養父母も、この街も―――。そう心に決め、エリナは前を見据えた。それが、ボスとの出会いだった。