DEAD TOWN
3.
「出掛けるの?」
柊がジェイクと飲みに行こうと玄関に向かおうとした時、突然エリナが声を掛けてきた。
「あぁ。ジェイクが、どうしても俺と飲みに行きたいらしい」
「そう・・・・・・」
「なんか、用か?」
「別に・・・・・・」
「なら、ジェイクが外で待っているんだ。行ってくる」
「そう。じゃ、気を付けて」
「あぁ」
何年ぶりだろうか。誰かに出掛けることを告げ、そして誰かに見送られ家をあとにするのは。家庭や家族がこんなにいいものだなんて、ずっと見逃してきたのかもしれない。当たり前の日常が、どうしてこんなにも素晴らしいものだと気付かなかったのだろう。やはり、自分は無駄な時間をただただ過ごして見過ごしてきたに違いない、と柊はふと思った。
ねぇ?玄関から出て行こうとする柊に向かって、またエリナが声を掛けてきた。
今度は、いったいなんなんだ?もしかして、またお得意の嫌味でも言うつもりなのか。なら、さっき言えばいいじゃないか。全く、面倒くさい!と思うが、性格上無視も出来ずに柊は振り返った。
「ずっと、ここにいるつもり?」
ほら、来た。やっぱりだ。
「お前が出て行けというなら、明日にでも住むところを見つけて出て行くよ。それでいいんだろ?」
「そんなこと、聞いてない。ずっと、ここにいるのか?って、聞いてんのよ」
意味が分からない。お前が出て行けと言ったから、俺は家を見つけ次第出て行くと返答した。それが何故、もう一度同じ質問を繰り返すんだ。柊は苛立った。
「だから、ここを出て行くと言っているだろう。お前が俺を嫌っているのは、重々承知の上だからな。それに俺だって、お前に何度も殺され掛けるのは、もう御免だ。適当なところを見つけたら、すぐにでも―――」
「そうじゃないくて」エリナが柊の言葉を遮る。「そうじゃなくて、この街に、ずっといるつもりなのか?って、聞いてんの」
ますます、意味が分からない。お前は、この街に一度足を踏み入れたら二度と帰れない、と言ったじゃないのか。それなのに、今更そんなことを言われても、俺はどう返答したらいいんだ。柊は、頭の中の整理がつかないままただただエリナを見つめた。
「もし、あなたがこの街から出て行きたいなら、一度だけチャンスをあげる。でも、一度だけよ。覚えておいて」
相変わらず不機嫌な顔で腕を組んでいる女の姿を、柊はただ黙って見つめた。今の言葉は本気なのか、それとも冗談なのか、女を探るも無表情すぎて分からなかった。この女は俺を試しているのだろうか。逃げ出した俺が、生きて帰って来るか、それとも死んで帰ってくるか、と誰かと賭けでもしようとでもいうのか。柊は、複雑な気持ちでそこに佇んでいた。
「明日の早朝4時に、人山(ひとやま)に来て」
「人山?そんな山なんか、あったか?」
「そんなに大きい山じゃないから気付かなかったみたいだけど、この裏を見ればあるわ。ここから歩いて20〜30分くらいかな、そこを真っ直ぐ登って。で、頂上に着いたらそのまま真っ直ぐ何も見ないで走り抜けて。突然、道が開けるから。そうしたら、元の世界よ」
「急に・・・・・・、どうしたんだ?」
「どうもしない。ただの気紛れ。それに、あなたといるとイライラするの」
それは、こっちのセリフだ!という言葉をまた飲み込む。この女は、俺を助けようとしている。何故だかは分からないが。でも、たぶん間違いないだろう。
「分かった。明日の朝、4時だな」
「そうよ。話はそれだけ。じゃ、ジェイクとの夜を楽しんで」と言って、エリナは行ってしまった。
「さあ、それはどうかな?」
柊はエリナの背中に笑い掛けた。イライラする、ね。それは、俺もおんなじだ。お前を見ていると、心が窮屈になって死んでしまいそうになる。そう思った時、ふと淋しさが襲った。なんだ、この感情は?俺は喜ばなければいけないのに。何故、こんな感情が湧き上がるんだ。明日になれば元の世界に戻れる。こんな危険な街からおさらば出来る、っていうのに。なのに、心に小さな小さな痛みを生じるのは、どうしてなんだ―――。
俺には、いつもの生活が待っている。でも、俺の帰りを待っている女はいない。けれど、それなりに気楽な日常が待っている。そして俺は、その生活をそれなりに楽しみながら淡々と送る―――。平坦で平凡な生活を。こんなふうに苛々して怒ったり、悲しい思いもしなくてすむ。ましてや、男から言い寄られることも、小生意気な小娘によって感情を掻き乱されたりすることもない。だから、俺は喜ばなきゃいけない。喜ばしいことなのだから。
それにしても、たった短い時間で一生分の喜怒哀楽を使い果たしてしまったようにも思う。慣れない感情を出すということは、とても疲れることだと柊は痛感した。心身ともに疲れて、ヘトヘトだった。なのに、何故か生き生きと生きているような実感も帯びた。不思議だった。一日があっという間に終わってしまっていたのが。少し淋しい気もするが、でもこの生活は今日でおしまいだ。明日からは、平凡だけど穏やかな日常が待っている。その生活の方が、やっぱり自分には似合っている。元の生活。今日のように、女でイライラすることはもうないだろうし。俺は、女とは無縁の世界で生きているのだ。だから、今日のことは夢だと思えばいい。リアルすぎる夢。明日になれば、このもどかしい感情もなくなるはずだ。そう、この世界は夢。そして、あの女も夢の一部。もともと、出会うはずのない女なのだ。錯覚だと思えばいい。たまたま、夢に出てきた女に好意を寄せてしまいそうになっただけのこと。単なる事故―――。
「どうした、シューゴ?」
痺れを切らしたのか、ジェイクが家に戻ってきた。
「あっ?悪い。急に、アイツが喋り掛けてきたもんだから・・・・・・」
「アイツ?ダメね。エリナ、って名前がありま〜す。エリーのこと、名前で呼んであげて下さい」
「あ、あぁ・・・・・・。そ、そうだな・・・・・・」
といっても、明日にはもう自分はいなくなるのだから、もうあの女のことを名前で呼ばなくてすむのだ。柊は、女性を名前で呼ぶのが苦手だった。だから、いつも名前で呼ばない方法を探していた。けれど、いつも女は名前で呼ばれたがる。おい、とか、お前、とか言わない約束でしょう、と。それも次第には苦痛になり、女を遠ざけていったのかもしれない。勿論、原因はそれだけではない。でも、それもひとつの要因ではないか、と柊は思うのだ。
「じゃ、行きますよ。シューゴ」
そう言って、ジェイクは軽くウインクをして微笑んだ。そして、柊の肩を抱く。
あ、あ・・・・・・。と曖昧な返事をして、やんわりと肩に掛かるジェイクの掌を振り払う。