オナンの女
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涼二の右側で、珠樹が革張りのステアリングを握っている。
珠樹の愛車メガーヌ・ルノー・スポール。欧州車特有の引き締まった走りが魅力のスタイリッシュな3ドアクーペだ。VWゴルフなどと同様のCセグメントボディ。先代メガーヌRSから右ハンドルに変更となった日本導入仕様車である。暮れなずむK市の公道に、ブラン・ナクレMの白い躯体が艶
つや
やかに煌
きらめ
いている。
伝統的な街並みを保全する美観地区の白壁が夕映えに染まる。涼二は珠樹の運転の元、兄、誠一のアトリエがある隣市のS市に向かっていた。今宵は誠一の二十八回目の誕生日。珠樹は彼氏の弟である涼二を招待して、ささやかな誕生会を催す算段なのだ。
「相棒ちゃんも連れてくればよかったのに」
六速マニュアルミッションをしなやかな手付きで操りながら、珠樹が涼二の横顔に気を配る。
「あいつはいいですよ。あんまり賑やかになっても迷惑だろうし」
また子供扱いだ。ナビシートのドアアームレストに左の片肘を付きながら、涼二は無愛想に答えた。黒を基調としたシンプルで控えめなデザインながらも、上質感のあるインテリア。柔らかめのクッションが心地いい。
「そう、残念ね。別に気を使わなくてもいいのに」
そっちがそうでも、こっちが気を使うんだけど。あと、その足も――涼二は黒皮のシフトノブ越しに、ちらと斜め右下を見た。何時もはロングスカートが多い珠樹だが、今日はチェリーピンクのカーディガンを羽織り、タイトな白いミニスカートを履いている。そこからスリムに伸びる白い太ももが、否が応でも脳裏に焼き付いてしまう。邪念を振り払うように涼二は、助手席の窓の外に視線を投げた。
さっきから、やたら通行人と目が合うな――涼二が小声でつぶやく。帰宅ラッシュで混雑するK駅前の表通りを通過する白いメガーヌ。法定速度を大きく下回るスピードだ。フェンダーからフロントサイドへの力感にあふれるフォルム。流れるようなサイドビューが、街行く人々の羨望の眼差しを集めている。いや、むしろ注目を浴びているのは、冴えない学生の隣でヨーロピアンなホットハッチ車を操る、美人の女性ドライバーの方なのだろうか。
ようやく渋滞を抜けた。珠樹がここぞとばかりにシフトアップする。揺れる車内。路面が悪いのか段差を乗り上げたようだ。欧州車はサスペンションが硬いので、段差の振動が激しい。涼二の前髪が頬にかかる。ラフというよりは地味な服装。B級ロックミュージシャンのような長すぎる前髪が、妙にアンバランスに見える。
カーステレオから流れる幻惑的なスローテンポのギターサウンド。ジミ・ヘンドリックスの名曲「リトルウィング」のインストロメンタル・カヴァーだ。シングルコイルピックアップ特有のエッジの効いた乾いたトーン。八十年代に活躍したテキサスのブルースロックギタリスト、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの演奏である。二十代の女性にしては随分と渋い趣向だ。
「――ねえ、このCD兄貴のでしょ」
「あっ、やっぱりバレちゃった」
珠樹がぺろりと舌を出す。
「昔、兄貴にMP3に落してもらってよく聴いてたから」
「流石に兄弟だけあって、聴く音楽も同じなのね。でも私なんてCDどころか――そもそもこの車自体が、太っ腹のオーナーさまサマのものですから」
おどけた口調で微笑みながら、珠樹がセンターコンソールのスライドアームレストをぽんぽんと叩く。この車は運転免許を持たない誠一が、半年程前の珠樹の誕生日に、彼女を「お抱えドライバー」と銘打ち、現金購入でプレゼントした代物なのである。大学付近のワンルームマンションに住む彼女だが、ほとんどそこには帰らず、毎日この車で大学と誠一の住居とを往来している。いわゆる半同棲状態だ。
「そうやって兄弟で影響し合えるのっていいよね。私、一人っ子だから憧れるな」
し合ってはない。一方的に受けてばかりだ。涼二は出掛かった言葉を飲み込んだ。
周りが薄暗くなってきた。オートライトが点灯する。珠樹は左手をシフトノブから離し、眼鏡の位置を整えた。彼女は大学の講義と運転の時にだけ眼鏡を着用する。紅色の細いフレームラインが彼女の整った顔立ちにアクセントを与え、理知的な印象を醸し出している。
そのまま左手を前髪に添える珠樹。何度もバックミラーを覗き込みながら、マロンブラウンのボブへアーをかき分けている。先日カットした前髪が短かすぎたのか、すこし気にしているようだ。その度にフローラルの甘い香りが舞い、涼二の秘めた感情を刺激する。
「涼くんも、ばっさり前髪切ればいいのに。いつも顔が見えないぐらい重々しく伸ばしちゃって。もったいないわよ、せっかくお兄さんに似て凛々しい顔のイケメンくんなんだから」
無言の返答。誉められて悪い気はしないが――音楽の趣味にしろ外見にしろ、いつも涼二の背後には、兄の影が付きまとう。
そして進路にも――。
しばらくの沈黙の後、二人を乗せた車はK市とS市をまたぐ旧Y村の峠へと差し迫った。すっかり日は暮れている。珠樹は手早くシフトダウンし、引き締まった細い右足でアクセルを力強く踏み込んだ。うねりを上げる2リッターDOHCターボエンジンの排気音。タコメーターが幻想的な残像と共に跳ね上がる。この峠を越えることが多いので、硬い足回りのスポーティーな車が重宝するのだ。
「――ねえ、涼くん。ところで進路の方向性ってもう決まったの」
前方を見据えたまま、珠樹が問い掛ける。
「え、まだだけど……」
「ウチの環デも三回生から、ランドスケープ、建築、インテリアの三つの専攻に分かれるのは知ってるよね。そろそろ卒業後に進む道を見据えて方向性を定めとかないと。こういう選択は早ければ早いほどいいのよ」
涼二は「うん」と空返事をした。続けて「わかってるけどさ……」とうっとうしげに口ごもる。
一口に美大と言っても、その方向性は様々である。大きく分けるとアーティストの道を歩む芸術学部と、企業デザイナー目指すデザイン学部。前者は洋画・日本画・彫刻など、後者は情報、環境、服飾などの各科に分類される。そこから更にコース毎に細分化された専門技術を習得し、それぞれの道でのプロフェッショナルを目指すのである。
一般的にアウトローの巣窟
そうくつ
の印象が強い美大ではあるが、企業デザイナーとして就職したり、個人事務所を立ち上げたりと、社会と折り合いを付けながら安定した道を模索するのが、デザイン学部の特色である。同じ大学といえど、作家
アーティスト
を志す芸術学部とは似て非なるものなのだ。
涼二のように環境系のデザイン科を専攻し、真面目に卒業した場合は、家具、インテリア、ディスプレイ、建築、土木系のメーカーや設計事務所などに就職して、設計デザイナーとして進む可能性が開かれている。だが実際は、卒業後大半の人間が職業クリエイターとして生きる道を頓挫し、大学で学んだ内容とはまったく関係のない一般的な職業に就くのが厳しい現実なのである。
「特にこれといってやりたいことがないんだったら、私は建築を進めるけどな。建築士の資格を取れば、社会に出てからの将来も、ある程度安定を見込めるし」