目が覚めると小学五年生だった。
『夢、二つ』
目が覚めると小学生だった。
寝る前はな? 三十一歳だったんだよ、俺。
起きたら月曜かー、働きたくねーって思いながら日曜の夜とお別れしてきたんだ。
出世とは無縁の冴えない安月給サラリーマンだったんだ。
なのに目が覚めたら、俺は小学五年生になっていたんだ。
通販で買ったパイプベッドに煎餅布団。それが俺の寝床だった。
昨日までの。
目が覚めた俺を包んでいたのは、フカフカの羽毛布団。
カーテン越しに薄明かりが差していて、それより幾らか強い光が引き戸の隙間から差し込んでいて。
隣の布団には兄貴が寝ていて、襖一枚隔てた隣の部屋には父が寝ていて。
それは間違いなく、極稀に早起きした俺が見ていた光景。
子供頃の俺が見ていた光景。
時刻は午前七時十五分。
昨日までの俺なら、けたたましく鳴る携帯のアラームを止めている時間。
代わりに聞こえてくるのは、小気味良く響く包丁の音。
母が朝食を作る音。
母は毎朝欠かすことなく朝食を作っていた。
高校生の兄貴が起きる時間の十五分前。俺は起きるのは八時。それぞれが別個に朝食を食べて登校する。
一人分の朝食を作り、その一人を送り出したあと、起きだしてきたもう一人に対して同じことを繰り返す。
父は、決まって俺のあとに起き出して、朝食はとらずに歯を磨き、お茶を一杯だけ飲んで出勤する。お茶をインスタントコーヒーに置き換えれば、昨日までの俺と全く同じ。
夢にしてはあまりにも生々しい。
日めくりカレンダーには、平成四年の文字。
俺は十一歳。小学五年生。
ここはまぎれもなく二十年前の世界だった。
時刻は午前七時三十分。
兄貴が行ってきますも言わずに家を出る。まだ寝ている家族を起こさないように、静かに玄関の扉を閉めて。
部屋は六畳の和室。兄貴と二人部屋。
勉強机が二つ、漫画本ばかりの本棚が一つ、服が詰まった箪笥が一つ。
カーテン越しに差し込む薄明かり。居間から差し込む蛍光灯の照明。
耳を澄ませば、車庫から自転車を引っ張り出す音が聞こえる。
そういや兄貴は、自転車に施錠しなかったな。
「おはよう」
まだ寝ている家族を起こさないように、小さな声で。
「あれ、珍しい」
母は目を丸くして、俺の気紛れの早起きを歓迎した。
三年前、母は癌で死んでしまった。
それはこのときから十七年後のこと。
結局、俺は何の親孝行もできずに、母の最期を看取った。
「母さん、ご飯食べたい」
「ん? いいよ、何食べたい?」
「何でもいい」
「何でもいいが一番困るんだって」
本当に何でもいいんだ。母さんが作ったご飯なら。
若い頃の母。決して美人ではなかった母。それは、化粧したり着飾ったりといった、自分自身に対する投資を一切行っていなかったからだ。
兄貴や俺の我侭を優先させて、いつだって自分のことは後回し。
母はそんな人だった。
そんな人だったから、父は母を捨てた。
それはこのときからたったの五年後。
母に“女”を感じなくなったから。だから、“女”を武器に言い寄ってきた女のところへ行った。
母は“母”になったが、父は“男”のままだったというわけだ。
まだ俺が学生だったから、母は“女”に戻れなかったんだ。
「おはよう」
父の声だ。
まだ若い。といっても四十すぎ。まだメタボ腹にはなっていない。
父は、俺が起きていることを確認してから起きてくる。
父が言った、おはよう、が母には向けられていなかったから。その声が寝起きの声ではなかったから、嫌でも分かってしまう。
当時は分からなかったが、今なら分かる。昨日まで三十一歳だった俺になら。
ついでに言えば、今の父に対して何を言っても意味がないことも分かっている。たとえば小学五年生の俺に、三十一のお前は出世とは無縁の冴えない安月給サラリーマンだ、と説教したところで、どうにもならないように。
午前八時十五分。
父を見送り、ようやくの登校。
名札を胸に付けることへの抵抗もあったが、ランドセルを背負うことへの抵抗もあったが、一番の障害は母をもっと見ていたいという気持ちだった。
「母さん、長生きしてな」
「どうしたの?」
「ううん。いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
……夢なのか?
夢でもいい。起きたら一日ぐらいは精一杯働いてみせるから、もうしばらくこのままでいさせて欲しい。
だから、夢だなんて思わない。ただ今を精一杯楽しんでやる。
とはいえ、左胸に付けた名札を眺めれば、笑えてくるし泣けてもくる。
『五年三組 江口やすなり』
俺、昨日まで三十一歳だったんだぜ?
作品名:目が覚めると小学五年生だった。 作家名:村崎右近