ほくろ
「そんなになつかれたら、可愛くてしょうがないだろう」
「別に」
妻の返事はそっけない。何だかこのまま妻と子は有刺鉄線を築いて、僕から離れていってしまいそうな気がした。
少し前まで、年下の妻の少しいたずらっぽい仕草や我が儘な様子は、かわいらしく目に映ったものだった。きっかけと言えば妊娠期のつわりだろうか。毎日起きていられないほどひどいもので、食事もほとんど食べられず、点滴を受けに週に何度も病院に通った。ヒステリーの傾向は、あの頃芽生えたのかもしれない。
何度もトイレへ駆け込み、またそうでない時はぐったりと横たわっているだけの妻は、
「あなたのせいで、私はこんなに苦しまなくちゃいけないの!」と泣きながら僕を責めた。
僕にはどうすることもできなかったが、苦しむ妻を少しでも喜ばせようと、本屋のマタニティーブックのコーナーから、お勧めの一冊というのを買って帰った。
妻は嬉々として紙袋を破りページを開いた。僕は誇らしい気分だった。少しでも妻をつわりの苦しみから開放できたことが、これから父親になるのだという自負に繋がった。花や蝶に縁取られた表紙を開き、僕らは肩を並べて本を読んだ。
開いたどのページにも笑顔があった。優しく語りかけるような言葉、丸い解説文字、写真の妊婦や赤ちゃんの表情を眺めるだけで、こちらまで満ち足りた気分にさせられる。そこは常に暖かい温度が保たれ、すべての安全が約束された世界のように見えた。
妻の、ページをめくる手が止まった。そこには胚芽の頃から一ヶ月ずつ、魚から哺乳類へと連々と進化する胎児の写真が並べてあった。それを見た途端、妻はぶるぶると震えだした。
「これは死体の標本じゃない!」
妻は本を僕に投げつけた。避ける間もなく本は僕の額にぶつかった。痺れるような痛みをさすりながら僕が思ったことは、人の体が震えるのを見たのは初めてだというものだ。妻の身体はまだ震えていた。そしてそのままわあっ泣き出して床に突っ伏したのだが、その姿勢は膨らんだお腹の子を圧迫しないように横向きだった。お腹にもうひとりの人間を抱えた時から妻は、僕の知っている恋人ではなくなったのかもしれない。妊婦の敏感な感受性に驚きながら、僕はもう一度その本に目を通してみた。
白い膜を張ったような胎児の目は、宇宙を漂う石のかけらのように見える。確かにその赤ん坊はどこにも拠り所がなさそうで、死を連想させるには十分な写真だった。安易に本を買ってきたことを僕は後悔したが、すでにどうしようもなかった。
「さあさあ、お風呂に入りましょうね」
てんぷらにはほとんど箸をつけないまま、妻がそう言った。むずかる唯愛の体を手渡され、僕はちょっと困った。けれど手順としては、妻が浴室へ行き大急ぎで服を脱ぐまで抱きかかえていなくてはならない。
「ゆあちゃん」
僕がそう呼びかけても、唯愛は母親の消えた方へ手足をばたばたさせるだけだ。ぬくもりの違うごつごつした腕の居心地の悪さに、露骨な不機嫌を表明し身を捩じらせる。
「きて」
浴室から妻の声が聞こえる。唯愛を抱いて向かうと、裸の妻がタオルで肌を隠しておいでおいでをしている。とても穏やかな表情だ。柔らかな笑みまで浮かべている。言うまでもなくそれは唯愛に向けられたものであって、僕に向けられたものではない。分かっているのに不思議な心地がする。二重写しになった現実の上を歩いているような気分だった。僕は黙って娘を渡した。
唯愛を抱きかかえた妻が、はっと息を吸い込んだ。
「どうした」と僕は言った。
妻は開けっぱなしの口のまま、首だけを僕の方へ向けた。そして「ほくろ」と囁いた。
「ほら、背中に。私のとまったく同じ位置にある。こんな所まで一緒だなんて」
囁くような必要はまったくなかった。けれど妻の声は神妙そのものだ。
うつ伏せのまま、背中をさらけ出した唯愛は、およそ真似できないような複雑なうめき声を出していた。確かに娘の背中には、少し大きめのほくろがあった。柔らかい骨が行儀よく並んだ隣に、ぽつんと落とされた黒い点。
「君の背中にほくろなんてあったかな」
すると妻はきっぱりと頷き、裸の背中を僕に向けた。
「ほら、ちゃんとあるでしょ」
産後の、少し緩んで垂れた脇腹が目に入った。あれだけ膨らめば表面の皮が伸びきってもおかしくない。中身を出してしまったすぐ後でさえ若干皺が寄る程度で済んだのは、やはり人体の不思議というものか。
「ね、同じ位置にあるでしょ」
そう言われてからやっと僕は妻の背中に目を移す。日焼けしていない白い肌に、唯愛よりもはっきりとした背骨の凸凹が並んでいる。
「ほら、あるでしょ」
妻はせかすように手をひらひら振る。背中に回した妻の指先が指そうとする方を辿って、僕は目を右へ右へと移す。と、ほくろはあった。
一体、自分の背中のほくろを知る機会なんてあるのだろうか。鏡を見ながら全身をくまなく点検する、そんな妻の姿を想像してしまう。もしかすると、昔の恋人に教えられたのかもしれない。思えば僕はいつも、妻の表側しか見ていなかった。女の背中を興味を持って眺めたことなどこれまでに一度もなかったし、妻の背中を眺めるのもこれが初めてのことだった。
「ああ、うん、あるね。確かにある」
僕がそう言うと、妻はにっこりとうれしそうに満足したような笑顔で振り返った。
「どうして今まで気づかなかったのかしら」
妻は娘の背中のほくろを撫でながら、納得がいかないように何度も首をかしげる。しかし、そう言う妻の目はきらきらと輝くようだった。そして妻は思い出したようにまだ突っ立っている僕に目を移し、用は済んだとばかりに浴室のドアを閉めた。
妻と娘がお風呂に入っている間、僕はテーブルの食器を片付け、残ったてんぷらをラップに包んで冷蔵庫に入れた。ビールと油が腹の中で分離して、とてもじゃないけどこれ以上は食べられそうにない。
だいたい妻は料理が好きだけれど、それも気まぐれで、バランス感などというものはまるでないのだ。本来なら、ご飯と味噌汁くらい付いてきてもいいはずなのに、今晩など、ただひたすらてんぷらのみである。以前何気なく、毎朝会社で野菜ジュースを飲んでいるという話をすると、途端に野菜料理がこれでもかというくらい並んだ。サラダと煮物ばかりが毎日現れ、ご飯の中には丁寧にも大根が刻まれて入っているという具合に。さすがに、サイコロが埋もれたような大根飯ばかりを食べさせられた時は、白いご飯のありがたみがよく分かったけれど。
シャンプーの香りとほんわかした湯気をまといながら妻が風呂から出て来る。どいて、と言われるのは分かっていた。だから僕は先に部屋の端っこで待機していた。
バスタオルを巻いただけの妻は、気持ち良かったね、うんうん、ゆあちゃん、そうだねそうだね、と頷きながら、手早く唯愛に紙おむつを巻き、肌着を着せていく。
僕がいてもいなくても妻が問題無しですべてこなしてくれるのは本当に助かる。それでも、僕に向けられた妻の濡れた背中からは拒絶のにおいがしてならない。正直な所、妻と唯愛のほくろなんてどうでも良かった。僕はビールの缶をあおった。ビールはすっかりぬるくなっていた。それでも、ないよりはまだいくらかましだった。