ほくろ
1
あ、という声が聞こえて振り返ると、てんぷらを揚げている妻が、右手の甲を押さえていた。
「どうした、やけどした?」
妻は首を横に振り、こう言った。
「妊娠中にね、病院の母親学級で知り合った人がいたんだけど、一人目の出産の時、てんぷらを揚げている最中に、破水したって話を思い出したの」
僕はふうんとだけ頷いた。振り返った妻の額には汗が噴き出している。
妻の話は唐突だったが驚きはしなかった。突拍子もないことを言い出すのはいつものことで、それについては一通りの反応を返してさえいれば十分だった。妻の中ではきれいに関連づいているのだから、無暗な疑問や、詮索じみた質問などいちいち必要ない。実際、今の話だって僕に向けられたものだかどうか分からない。というかおそらく、半分だってその可能性は薄いに違いない。
まだ二年に満たない結婚生活だが、そのある意味特殊な人間関係をこれまでいやという程味わってきた。その中で僕が掴んだ要点は、ただひとつ。何にでも妥協すること。それに尽きる。
妻は手の甲をさすりながら、顔をしかめた。
「やっぱりやけどしたんじゃないのか」
すると妻はむっとしたような顔をして、首を強く横に振り、
「唯愛ちゃんから目を離さないで」と厳しく眉間に皺を寄せた。
ああやっぱり、と身を小さくしながら僕は、膝の上で寝息を立てている娘を見下ろす。赤ちゃんとこどもの中間とも言える柔らかい身体。そろそろ足が痺れてきた頃だったが、少しでも動くと起こしてしまいそうだった。
僕は唯愛の寝起きの悪さを最も恐れている。太刀打ちできない娘の全面拒否の姿勢、気難しい娘の、きりきり腸をつねり上げられるような声は、今はちょっと聞きたくない。明日からまた一週間が始まる日曜の夜くらいは、せめてもうしばらく、ささやかな時間を許されて静かにビールを味わいたい。
半年前に生まれたばかりの娘は、妻にとてもよく似ている。ぽつんと豆を落としたような目は食べてしまえそうなほど小さかったが、二重に深く刻まれたまぶたも、目じりのすっと切れ上がった角度も、いずれ成長するに従って妻とまったく同じものになるのだろう。
「この子は私の中から私の部分をそのまま持ち出してきたのよ」
産院のベッドで妻は、唯愛の髪を手でそうっと伸ばした。摘まれたばかりの綿のような唯愛のその髪を、どうしてか僕は触れることができなかった。妻の言葉が胸に引っ掛かったせいなのかもしれない。妻の手をよけて、その先の綿毛に触れればよかった。もっと言えば、妻の手に自分の手を重ねるだけでよかったのかもしれない。
けれど僕はそうはしなかった。十ヶ月もの間、母と子は隙間なくぴったりと繋がっていたのだ。僕の入り込む余地を探すのはなかなか難しかった。半年経った今でさえも僕の目には、母と子は腹と腹を離そうとしないように見える。
「お待ちどうさま」
目の前にどかっと大皿が置かれた。エプロンをはずしながら妻は唯愛の寝顔を覗き込む。
「今はあんまり寝てほしくないのよね。後でちゃんと眠れなくなるじゃない。夜中に起こされて、相手をさせられるのは私なのよ」
非難、という声色でもないのに十分棘のある響きだった。妻は笑っているし、その身体からは甘いにおいが漂ってくる。妻が何を思っているのか、僕には掴めない。
「お風呂に入れば疲れてまた眠くなるさ」
「だといいけど」
僕は妻のコップにビールを注ぐ。妻はにっこりと受け取ってそれを飲む。細い喉が動く。僕はそれを何となく見ている。揚げ物をすると余計暑くなると妻は言い、クーラーのリモコンをぴっといじる。そしてえびの尻尾を手でつまんで、何もつけずに口の中に放り込んだ。もぐもぐ口を動かしながら、だんだん表情が曇っていく。
「てんぷらってなかなかカラッと揚がらないのね。ちゃんと気をつけて作ったのに、でもやっぱり今日のもだめだった。衣が水っぽい。料理に失敗するとものすごくがっかりした気分になるわ」
「そんなことない」
僕はしし唐とイカのてんぷらを一緒に口の中に入れる。一口噛むごとに歯の間から油が染み出してくるようだった。確かにまずかった。
「どう?」
妻が僕の顔を覗き込む。僕はつい不用意な言葉を口にしてしまう。
「うまい。すごくうまい」
妻が息を吸い込んだのが分かった。
「そんなにおいしい? こんなに油を吸ったてんぷらが? だったら残さず全部食べてみせてよ」妻は息継ぎをするように一呼吸置いた。そして叫ぶように言った。
「嘘を言わないで! ごまかしたり上げへつらったり。私を馬鹿にしないで!」
口の周りにべっとり張りつく油を感じながら、僕は何とか天ぷらを飲み込んだ。そして言った。
「悪かったよ。そんなつもりじゃなかった」
「だったらもう二度と、つまらないことは言わないで」
謝ることは何でもない。甘い認識が僕の方の手落ちであったことは明らかだ。突発性の妻の怒りはまるで空から落ちてくる雨粒のように、要するに避けようのないものだった。
テレビは天気予報を映していた。赤と青の凸凹の前線と低気圧の渦が、時刻の変化とともに日本列島の下からじわりじわりと近づく。中継の女性アナウンサーにカメラが切り替わる。嵐の前の静けさを予感させる真っ暗な湖畔。それを背景にアナウンサーはハイヒールの両足をそろえ、
「残念ながら一週間はおおむね雨となりそうです。お出かけの際には傘のご用意を」と優しく微笑みかける。
「余計なお世話よ」
えびの尻尾を吐き出しながら妻は毒づき、テレビのチャンネルを変える。夜の湖畔の画面から一転して、バラエティーが映る。色鮮やかなセット、椅子を詰め合わせて座る芸能人。嬌声が溢れる。
「明日、遅くなるから」
画面の上の騒動に紛れて、さらりと言ってみた。
妻は何も答えない。視線も動かさずにテレビを見つめている。
「取引先の人との飲み会で」
僕が言い加えると、そう、という短い返事が横顔から漏れた。窮地は脱したようだった。あとはそれとなく雰囲気を回復し、通常の夕食風景に立ち返れば、問題はすべて解決したと言える。
僕は膝をわざとずらして、娘の起床を促した。背中の心地が悪くなった唯愛はくしゃりと顔を歪ませ、両手を突き上げ伸びをする。そして顔の真ん中に皺を寄せると、喉を絞るような高い声で泣き出した。僕が困り果てた表情で妻を振り返ると、やれやれというような反応が返ってき、夫の無能さを認める彼女は、仕事の配分をこなすために娘に手を伸ばした。
「唯愛ちゃんは、ほんとに寝起きが悪いわねえ」
唯愛は寝ぼけながらも母親の姿を見分けているようだった。妻に抱かれると、耳をひっかくような泣き声は徐々に、甘えたような母音に変わってくる。生まれたばかりの頃は本当に小さくて柔らかくて、爪を立ててしがみつく姿はまさしく猫のようだった。
「よしよし」
妻が小さな背中を軽くたたく。頬に顔を寄せると唯愛は泣き止み、唇の感触を確かめるように二、三度合わせた。
僕だったらこうはいかない。抱っこしても歌を歌っても、唯愛は泣き止まないどころか、ますます声を引きつらせて泣く。唯愛が求めるのはいつも母親だ。いくら僕が意思疎通の道を探ろうと懸命になっても空振りばかりだった。