ほくろ
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私は母子手帳欄にチェックを入れる。目を見て笑うか、音のする方を振り返るか、首は座ったか、うんちの色は正常か、言葉を発するか。それらはすべて、子どもの異常を発見する手掛かりなのだ。チェックを入れるたび、私は安堵に近づいていく。そう、成長の悦びというより、不安打破の感覚。
それに十五種類の予防接種の予定もある。優先させるべきもの、一緒に打てるもの、四週間以上空けなくてはいけないもの。もしかすると一万人にひとりの副作用で、唯愛を死なせてしまうかもしれない。接種は義務だけど、その選択はあくまで母親に委ねられている。保護者の同意サインを書くたび、私は変な汗をかく。
急な発熱。嘔吐。夫は仕事で電話も繋がらない。実家は遠く離れている。助けてくれる人は誰もいない。唯愛を抱きかかえて私はタクシーに乗る。夜間救急に駆け込み、二時間待たされてようやく医者に診てもらえる。診察は一分で終わる。あかちゃんの嘔吐はよくあることです。機嫌も良くてちゃんと眠るのなら特に心配はないです。それと。医師は私の顔を見据えて言う。軽い症状なら極力救急は利用しないでください。本当に必要な患者さんの手当が遅れることになりますから。
気がつくと私は無表情になっている。口角をあげてふんわり笑うことなんてすっかり忘れている。髪のカラーだって五か月もしていない。どのシャツにも母乳の黄色いしみが付いているし、いつも同じジーパンをはいている。
たまに、ごくたまに鏡に映る自分の姿に気付いてしまう時がある。うつろな顔の私がそこにいる。
私は鏡に向かって微笑んでみる。頬、顎、眉、何でもいい、たった一つでも良いからどこか良い所を見つけようと、顔の角度を変えて鏡を見る。でもすぐに無駄だと悟ってしまう。良い所なんてどこにもない。どこから見ても私はうつろだった。私の中は既に空っぽだった。
私は幸せに満ちた日々を送っているはずなのに。毎日毎日幸せの中心にいて、唯愛の成長の奇跡の場面に立ち合っているというのに。幸福と充実を受け取り、笑顔で笑い、愛を教えているのに。それなのに、私の中は空っぽだなんて。
けれど私の足元は既に濡れている。私はそれに気付いてしまう。
水漏れの染みが徐々に広がっていくように、ひたひたと何もかもが濡れていく。止めようがなかった。私は認めなければならない。私の空虚はすぐそこにある。すぐそこ、目の前に。
最近やっとお座りができるようになった唯愛は、お気にいりのおもちゃのブロックで遊んでいる。ちょこんと丸いフォルムで、愛らしい背中を私に向けている。不器用に握りしめたブロックを、夢中になってしゃぶっている。
私はその背中を見ている。こっちを振り向かないでと思いながら、その小さな背中を見下ろしている。曲線で形作られた柔らかな存在、無防備なその背中。こっちを見ないで。いつまでもずっとあっちを向いていて。
私は願っている。今すぐここから離れたい。ここではないどこかに行きたい。そう思いながら、唯愛の背中を見つめている。唯愛に気付かれないうちに、ここから逃れることができたらどんなに良いだろう。私はそんなことを考えてしまう。
けれど、そこから一歩でも動くことは許されない。唯愛のお座りは不安定で、いつひっくり返るか分からない。三秒後には頭を打って泣き出す可能性だってある。それは私が予測できるもっとも近い未来だった。
私は常に注意深く唯愛を見守っている。特別心懸ける必要もなく、ごく自然にそれをやってのけている。だから私は、とても正常なはずだ。もっとも母親らしい母親の一人であるはずだ。
夫はよく私たちを一心同体と言ってからかう。夫の言葉は間違っていない。その通り、私と唯愛の繋がりは真実だ。それも目に見える、とても確かな真実によって、私たちは繋がっている。昨夜私は、唯愛の背中にほくろを発見した。それは私のものと全く同じ位置にあった。たとえ私と夫の間に不純物が混ざっていようとも、私と唯愛の間には純正の物質しか存在しない。ほくろはその証明のように、唯愛の背中に現れたような気がする。
ここから離れたい。なのに、ここから離れられない。うつろに対立する私の中の思いは、唯愛への愛情そのものだ。この世で一番大切なのは唯愛だ。嘘じゃない。それは何の偽りもない真実だ。
「ゆあちゃん、おっぱいの時間ですよ」
唯愛は嬉しそうに振り返る。唯愛は知っている。おっぱいという言葉の意味を、その味わい、その温かさ、その心地良さをよく理解している。唯愛はブロックを捨てて、私に向かって手を伸ばす。
硬く、しこりのように張ったおっぱいをもむ。乳首を二、三回ねじりながら引っ張ると、白色の母乳が勢いよくシャワーのように溢れた。開いた娘の口に乳輪全体を押し込むように入れると、その小さな体では考えられないくらいの力で吸い付いてくる。
唯愛は私の目を見つめながらおっぱいを吸う。私も唯愛の目を見つめ、優しく髪をなでながら微笑みかける。目と目を合わせましょう、微笑みかけましょう、携帯ではなく赤ちゃんの顔を見つめましょう。それは母親学級でも教わったし、母子手帳にも書かれてある。母親なら誰でも知っている当たり前のことだ。
面倒くさいとかうざいとか、そんな暴言はあり得ない。いい加減な態度、くすくす笑い、反抗的な挑発、過去の私、私が培った私そのもの、そんなものを全部無かったことにして、私は、ただ唯愛のためだけに存在する。
一分、二分……。私は時間を測っている。三分を経過した所でもう充分達成したと考えるのは、母親として利己的なのだろうか。私は汗で湿った唯愛の髪を撫でながら、その手をだんだん額に移す。そして唯愛の目を覆う。視界を閉ざされた唯愛は、変わらないリズムでおっぱいを吸っている。上手くいけばこのまま眠るだろう。
唯愛はこくん、こくんと喉を鳴らして吸い続けている。その音を聞いているうち、徐々に私の視界も狭くなってくる。貧血を感じている。頭を支えるのさえ億劫になってきて、首をうなだれる。
この白い母乳が血液から作られているのだと看護師から聞いたとき、にわかには信じられなかった。お母さんと赤ちゃんは本当に血と血で繋がっているんですよ。看護師の微笑む顔を、そのとき私はどんな顔で見上げたのだろう。喜びと期待、責任感あふれる思いで、その言葉を聞いていたのかもしれない。
母乳が血液だなんて、あの時は実感がなかった。けれど今なら分かる。この子は私の血液を飲んでいる。私の体重は毎月一キロずつ確実に落ちていった。いくら食べても痩せて行く一方だった。今では妊娠前より、六キロも体重が減っていた。
ふと濡れた感覚がして我にかえる。反対側の乳房にパットを当てるのを忘れていて、乳首から母乳がぽたぽた落ちていた。機嫌よく飲んでいる唯愛の邪魔にならないように、そうっと足をずらしながらティッシュの箱を引き寄せる。四、五枚立て続けに抜き、乳房の先に当てる。
服にまた、生臭いシミが付いた。天気が悪いから少しでも洗濯物を減らしたいと思っていた矢先だった。