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雪の華~Wintwer Memories~Ⅲ

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「いや、聞いてくれ。俺はこれまでこの話を誰にもしたことなかった。別れた妻だけでなく、俺自身の名誉のためにも、するべきではないと思ってきたから。でも、そろそろ誰かに話すべきときが来たのかもしれない。俺は今し方、君に言ったね。もっと自分に自信を持つようにと。だが、乗り越えなければならない試練があるのは君だけじゃない、輝さん。きっと俺もずっと避けてきたこの壁を乗り越えなきゃいけないときが来たんだ」
 多分、君が俺の前に現れたのも、神さまがそういう風にしてくれたのかもしれない。
 聡はもう一度、正面のキリスト像を見上げ、輝に視線を戻した。それでもなお、彼の整った顔は躊躇いが浮かんでいた。
 輝は、せき立てることなくじっと待った。
 やがて意を決したように聡が重い口を開いた。
「俺が女房に出逢ったのは三十年前になるかな。学生結婚だった。当時、女房には高校時代から付き合っていた男がいてね。俺と結婚することになる少し前、その男が他の女と女房を二股かけてたことがバレて、それはもう物凄い修羅場になった」
 話の内容は大体、そういう場合のお定まりのパターンであった。相手の女が妊娠、そのために男は今まで付き合っていた女―つまり、聡の前妻とは別れ、女と結婚した。
「俺と彼女はそれまで付き合うどころか、単なる学部学科が同じという程度で、まあ顔見知りというほどのものだった。俺も多分、彼女もそれがいきなり結婚ということになるとは想像もしていなかった」
 聡の瞳がまた遠くなる。その切なげなまなざしに、輝の心もまた切なく疼いた。
 二十歳の若さで結婚し、二十年間夫婦として過ごした女。その月日の重みの前では、昨日今日めぐり逢ったばかりの輝など、到底、彼の前妻に敵いはしない。
 バカね、私ったら。一体、何を考えていたというの?
 そんな輝の思惑をよそに、聡の話は続いてゆく。
「ある日、彼女が俺のバイトしている居酒屋に一人で来た。丁度、男と別れたその脚で来たらしくて、もう普段俺が知る彼女とは別人のように荒れてて、際限もなく酒ばかり飲んで。流石に見かねて止めて、到底、一人で帰らせられるような状態じゃなかったし、俺が彼女の下宿まで送っていった」
 その後は大体、想像がついた。輝には哀しいことだったけれど、その予想は聡の述懐と見事に符号してしまった。
「翌朝、隣で眠っている彼女を見ながら、男として到底、このままでは済まされないなと思ったんだ」
―お願い、行かないで、一人にしないで。
 そう言って泣きじゃくりながら取り縋ってくる彼女を、そのまま淋しい下宿に置き去りにはできなかった。もちろん、それでも最初は追いすがってくる彼女を何とか宥め落ち着かせようと試みた。
 仲の好い女友達にすぐに来て貰うようにするからと言い聞かせ、その友人と朝まで一緒に過ごせば良いと説得した。
 しかし、彼女は最後まで頑として折れなかった。
―吉瀬君が良いの。吉瀬君じゃなければ駄目なの。
 聡はゆるりと首を振った。
「恐らく、そのときの彼女は―こういう言い方は失礼かもしれないが、誰でも良かったんだろう。たまたま側にいたのが俺で、彼女に親切にした俺に彼女は縋りついたにすぎないんだ。愚かにも俺はそれが彼女の気持ちだと都合の良いように誤解して、彼女と結婚した」
 彼女の勢いと懇願に負けて一夜を共にしてから、一ヶ月後のスピード婚だったという。もちろん、互いの両親にも内緒で式も挙げず、入籍しただけのものだった。
「それから離婚するまで、ずっと奥さまと一緒だったのね」
 輝が呟くと、聡は頷いた。瞳は相変わらず遠い。
「そう。少なくとも俺は彼女だけを見てきたつもりだった。別れる前には、仕事人間だ、冷徹な男だと言われたが、俺なりに大切にしてきたんだよ。でも、笑わせるよ」
 聡はやりきれないというように小さく首を振った。
「離婚の本当の原因は何だと思う、輝さん」
 輝は言葉に窮した。見当もつかないことだし、適当なことを言うべきではないことも判っていた。
 聡は端から応えを求めるつもりはなかったようだ。輝の方を見もせずに、淡々と続けた。
「妻に男がいたんだ。しかも、その男っていうのが、二十年前に妻を棄てて別の女に走った卑劣漢だっていうんだから、もう怒るのを通り越して笑える」
 聡の妻の許に、ある日突如として電話があった。二人が結婚して既に十八年が経っていた。何と、妻の元恋人は独身に戻っていた。十八年前、妊娠させてしまったがために結婚した女性はすぐに流産。子どもがいなくなったことで二人の間は次第に険悪になり、入籍後半年で離婚に至る。
 その後、男は大学卒業後に別の女性と結婚したが、結局、またしてもうまくいかなかった。
「相手の男は妻に言ったそうだよ。ずっと君のことだけを考えていた。別の女と結婚して家庭を持っても、どうしても忘れられなかったそうだ」
 そのひとことで、妻は聡の〝妻〟であることを放棄した。結局、二人は二年近くもの間、ひそやかな関係を続けた。
「妻が俺に離婚を切り出したのは、恐らく、きっかけを待っていたんだろう。俺は間抜けにも自分の女房を二十年も前の昔の男に寝取られていることを知りもせず、妻をどこに出しても恥ずかしくない貞淑な女房だと信じ込んでいた。俺が仕事を辞めて店を始めるっていう夢を話しても、ついてきてくれるとばかり思い込んでいたんだ」
 別れ際、妻は言った。
―あなたに家庭を顧みなかったと責めたけど、本当はあなたを責められないわ。だって、私自身、この二十年間、あなたという男がすぐ側にいながら、あなたを少しも見てはいなかったんだもの。
 聡の妻という立場にいながら、彼女は二十年前に別れた恋人を忘れていなかった。彼女の眼に映っていたのは聡ではなく、彼女を棄てて去っていった薄情な恋人だったのだ。
「まったく、とんだ道化役だったな」
 聡は自分を嘲笑うかのように嗤った。
 恐らく、彼を徹底的に打ちのめしたのは、妻が最後に投げたひとことだったに違いない。二十年という年月は、けして短くはない。その長い年月、来る日も来る日も、妻がまったく違う他人のことを恋いながら夫である自分の側で生きてきたと知ったときの哀しみと衝撃は察するに余りある。
「妻が去った後、色々と自分なりに考えたよ。一体、自分の何がいけなかったのか。子どもができなかったのが良くなかった? いや、子どもができなくても夫婦で寄り添って生きているカップルはたくさんある。じゃあ、やはり妻の言うように、俺が仕事に夢中で妻のことを顧みてやらなかったから?」
「もう、止めて」
 輝の声が震えた。
「聡さん、それは聡さんが悪いのではないと思うわ」
 多分、二十年前、ただ淋しさを理由に聡の妻が彼に縋り付いたその瞬間から、この夫婦の運命は決まっていたのだろう。その場の孤独を埋めるためだけに、聡の妻は彼を求め、聡はそれを愛情だと勘違いしてしまった。
 それを誰が責められるだろう?
「聡さんはもう十分に悩んで傷ついたでしょう。人の気持ちは歳月でも変えられない。それは誰が悪いというわけでもないし、考えたからといって、どうにかなるものではないと思う。だから、もう自分を責めないで、これ以上、追い込まないで」
「輝さん―」