雪の華~Wintwer Memories~Ⅲ
聡の眼が揺れている。その奥底に揺らめく哀しみが愛おしかった。
「私も頑張って、これからは自信を持つようにするから。聡さんも明日から、過去はできるだけ忘れて生きるって約束して」
輝が言い終わらない中に、聡が盛大なくしゃみをした。
「いけないわ」
輝は聡が羽織らせてくれたダウンコートを脱ぎ、今度は彼の肩にかけた。
「これは君が着ているんだ」
こんなときは年上らしい命令口調で言う彼が微笑ましい。しばらく押し問答を繰り返した後、輝は微笑んだ。
「それじゃ、こうしましょ」
大きなダウンコートを並んで座った二人で羽織った。
「なるほど、こういう方法があったか。名案だ」
聡が破顔した。その横顔には先刻まで漂っていた悲愴感のようなものはない。そのことに輝は安堵する。温かな気持ちが全身にひろがってゆく。
「最初ここに飛び込んできたときは、雨があまりにも冷たくて、そのまま凍死するかと思ったわ」
今なら、こんな軽口をきける。
「そうなっても仕方なかったんだぞ」
ふいに肩に彼の手が回され、強い力で引き寄せられた。そのまま頭を聡の肩に預ける。
この男の温もりは、どうして私をいつも落ち着かなくさせるんだろう。その癖、どんな場所よりもこの男の傍が心地よい。
ずっと、ずっと、彼の側にいたい。この温もりに抱かれて、感じていたい。優しくて穏やかな笑顔を見ていたい。
聡が包み込むような優しさだけでなく、意外に傷つきやすい脆い面をさらけ出したことで、輝の彼への想いは更にいや増していた。
「ずっとこうしていたいけれど、このままでは流石に二人とも冗談でなく凍死してしまう。そろそろ行こう」
やがて聡の言葉で、その永遠に続くかと思われた幸せな時間は終わりを告げた。
聡にダウンコートを返そうしても、彼はどうしても首を縦に振らなかった。こういうところは、穏やかそうな外見に反して、存外に頑固そうだ。なので、そのままコートを借りていくことにした。
教会を出る間際、輝はつと後ろを振り返った。灯りもないガランとした聖堂内では、キリスト像が優しさと哀しみを湛えたまなざしで何かを見つめている。
「また今度、ここに来たいわ」
「ああ、また一緒に来よう」
聡が頷き、輝は彼に肩を抱かれるようにして外に出た。扉が軋んだ音を立てて背後で閉まった瞬間、輝は声を上げた。
「―雪」
「本当だ。雨が雪に変わったみたいだね」
教会にいたのはどれくらいの間だったのだろう。聡が来たのが五時半くらいだったから、およそ一時間半はここにいたことになる。
腕時計は既に七時をゆうに回っていた。
さらさらとした粉雪がひっきりなしに天から舞い降りてくる。かなり前から雪になったのか、教会前の公園にははや、薄く雪が積もっていた。
「行こう」
聡に促され、輝は歩き始めた。大通りに面した舗道に出るには、公園を横切らなければならない。一歩踏み出した時、ひときわ冷たい風が駆け抜け、輝の髪を嬲っていった。
その時、傍らにいた吉瀬が手を伸ばしたかと思うと、輝の髪に触れた。それは一瞬のことにすぎなかった。輝が驚愕していると、彼は微笑んだ。
「髪に雪がついていたから」
その科白で、吉瀬が髪に積もった雪を払ってくれたのだと判った。
と、輝の中で何かが騒いだ。雪の中の教会、隣に立つ見たこともない男、そのひとがそっと手を伸ばして輝の髪に舞い降りた雪片をつまみ上げた。今夜の出来事にとてもよく似た場面にどこかで遭遇したことがあるはずなのに、それがいつどこでのシーンなのか思い出せない。
喉に小骨が引っかかったように、思い出せそうで思い出させないもどかしさに、輝は顔をしかめた。
十二月の雪の夜はしんしんと冷える。気温は一段と下がったに違いない。輝はコートの襟に埋めるように首を縮めた。途端に男らしい清潔なコロンの香りが鼻腔をくすぐり、輝をすっぽりつ包み込む。
大好きな聡の匂いに包まれているのは、とても幸福だ。
「風邪を引くといけないから」
傍らの聡がコートについたフードを輝の頭におもむろにかぶせた。そのときだった。
ふっと振り向いた輝は息を呑んだ。
少し後方に佇む小さな教会は屋根に薄く雪を頂き、ひそやかに雪の中に建っている。既に積もり始めた雪が淡く発光し、闇の中でも教会はそこだけが浮かび上がっているように見えた。
この光景は確かにどこかで見たような―。
どこで見たのだろうと懸命に記憶を手繰り寄せている中に、パズルのピースがピタリとおさまるように閃いたものがあった。
「夢だわ」
唐突に叫んだ輝に、聡が愕いている。
「どうしたんだ?」
「夢よ」
輝は興奮して頬を紅潮させた。
「夢?」
聡は不思議そうな表情だ。
「聡さんに写真を撮って貰うのに初めてメールした日、あの夜に夢を見たの。不思議な夢だった」
輝は簡単にあの夢について話した。一面の銀世界に建っていた小さな教会、自分はウェディングドレスを着て教会の前に立っていたこと。
そして、漸く思い当たった。先刻、吉瀬が輝の髪についた雪を払ってくれたシーンのことだ。あれは、まさしくあの夢の中での出来事だった。
が、いかに何でも、その隣にタキシード姿の見知らぬ男がいたとまでは話せなかった。よほど結婚願望が強いのかと呆れられそうで怖かったからだ。
「もちろん細かい部分は違うけれど、雰囲気があのときの夢ととてもよく似ているの。まるで絵葉書で見るように幻想的でロマンチックな風景で、素敵な夢だったわ」
現実にはその後、雪も教会も側にいた男性も跡形なく消え去り、輝はその場に一人、取り残されてしまった―。もちろん、その顛末もこの場で話す必要はない。
「ふうん、世の中には不思議なこともあるんだな」
聡は輝の夢の話を一笑に付すことはなく、真面目な顔で頷きながら聞いてくれた。
二人はしばらく黙り込んで、降りしきる雪の中の教会を見つめていた。輝は聡の傍らで、美しい雪の夜を記憶に灼きつけるために食い入るように眺めた。
私は、きっと、今夜をずっと忘れない。
生まれ育ったこの町に今年初めての雪が降った日、吉瀬と過ごしたひとときを。
大好きな男と眺めた雪。雪の中に厳粛さを漂わせて建つ教会。あの夢と同じ幻想的で煌めいた雪の中の景色。
たった一瞬でも、自分は確かに聡とこの美しくも幸せな時間を共有できたのだ。この一瞬があれば、多分、大丈夫。明日から一人になっても、また私は強く生きてゆける。
そう自分に言い聞かせたのだった。
作品名:雪の華~Wintwer Memories~Ⅲ 作家名:東 めぐみ