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雪の華~Wintwer Memories~Ⅲ

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―吉瀬さんと出逢ってから、ずっと幸せだった。空っぽだった心が温かいもので満たされているの。
 それが何より輝の心情を表しているものなのに。
 果たして、聡が輝の想いに気づいているのかどうかは判らない。けして鈍感な男ではないから、もしかして気づいていて知らないふりをしているのかもしれない。その理由は、考えたくもないけれど、迷惑に思われているか深入りしたくはないからのどちらか―どっちにしても、輝にはあまり嬉しいものではないはずだ。
 もっと良心的に解釈すれば、輝の想いに気づけば、断らざるを得なくなるだろうから、敢えて知らないふりを通しているとも考えられた。
 輝は俄に鼓動が速くなるのを意識した。昨日と同じだ。撮影の日、ウェディングドレス姿でこの教会を背景に写真を撮った時、危うく転びそうになって、聡に抱き止められた。あの瞬間、心臓が煩いくらいに速くなり、彼に気づかれてしまうのではないかと不安に思ったほどだったのだ。
 今は、あのときよりもっと酷い。昨日はまだ聡への恋情をはっきりと自覚していなかった。でも、今は彼を好きだという自分の心を嫌になるくらい理解している。
 聡を好きだと自覚していながら、彼の匂いのするコートに身を包み、殆ど身体がぴったりとくっつくほどに身を寄せ合っているのはとても幸せなことではあるが、ある意味、拷問にも等しかった。
 現に、この瞬間も心臓は更に速くなり、体温は急上昇している。これは、いささか意識しすぎだろうか。

 忍ぶれど色にいでにけり我が恋は
   ものや思うと 人の問うまで

 突如として百人一種の平兼盛の歌が浮かんだ。歌の意味は、あの女を好きになってしまったけれど、この想いは秘めておかなければならないから、懸命に隠している。でも、私の様子があまりにおかしいので、人が一体、どうしたのか、誰かを想っているのかと訊ねるくらい、私の恋心は表に出てしまっているらしい。
 と、まあ、こんな感じの意味だ。
 輝が一人、蒼くなったり紅くなったりしている側で、聡は優しい瞳で彼女を見ている。
 それで、余計に輝の頬は熱くなり、心臓は速く脈打ち出すことになってしまう。
「俺も本間さんのことを輝さんって呼んでも良いかな」
「もちろん」
 頷くと、彼はにっこりと笑い、いっそう穏やかな瞳で輝を見た。
「輝さん。輝さんは自分について色々と悩んできたようだけど、世の中にはコンプレックスを抱えていない人間なんて一人もいないし、悩まない人だって存在しない。もっと自分に自信を持って、気楽に生きたら? 真面目なのは輝さんの良いところだ。でも、いつも構えて生きてたら、きついし、しんどいでしょ。俺だって、この歳だし、今まで何もなかったわけじゃないしね」
「聡さんにもコンプレックスがあるの?」
 よほど素っ頓狂な声を出してしまったらしく、聡は愕いたように眼を丸くしている。
「俺だって人並みにコンプレックスも悩みもあるよ」
「信じられない。だって、聡さんって、イケメンだし知的でクールで、それに優しいわ」
 一生懸命に聡の魅力を数え上げようとする輝を見て、聡が笑った。
「そんなに過分に褒めて貰えるのは嬉しいけどね。生憎と俺はそんな理想を絵に描いたような男ではない。第一、もう、かなりのおじさんだよ。俺の歳を知ってるんでしょう」
「ええ。由佳里さんのお父さんと同じ歳だって」
「そうそう。由佳里ちゃんは俺の娘みたいなものなんだ。それをいえば、輝さんだって、俺の娘といったって、おかしくはない」
「そんなことありません! 私はもう三十一で、聡さんとは由佳里さんほど歳は違わないわ」
 ムキになった輝を愕いたように見つめ。聡は小首を傾げた。
 教会の中というのは、やはり他の場所とは違う独特の雰囲気がある。たとえ今は礼拝が行われることなく、賛美歌が響き渡ることなくても、その場に身を置くだけで何かここが神聖で特別な場所なのだと教えられるような―膚で感じられるようなものが漂っている。
 ここでは嘘や欺瞞は一切通用しない、そんな気がしてくるのが不思議だった。
 輝は灯りもない淡い闇が満たす厳粛な空間で、ひたすら聡を見つめた。
「ね、今度は聡さんのことを話して」
「俺のこと?」
 聡が眼を見開く。
「私はまだ聡さんについて何も知らない。だから、少しでも知りたいの、あなたのこと」
 聡はしばらく視線を宙に彷徨わせていた。急に彼のまなざしが遠くなったような気がするのは、私の考えすぎなの?
 そのはるかな視線はかなり長い間、祭壇の上のキリスト像の辺りを漂っているようにも見えた。
 やがて、緊張を孕んだ静寂は、聡自身の声によって終わりを告げた。
「そうだね。今度は俺が輝さんに自分について話す番みたいだな」
 聡は意を決した面持ちで、視線を輝に戻した。既にその双眸はいつものように深く澄んだ湖、或いは底の知れない宇宙のように掴みどころがなく、それでいて限りない穏やかさを湛えている。
「昨日、君に話したよね。離婚のことは」
 念を押すように問われ、輝は頷いた。
「ええ、聞いたわ。脱サラした聡さんが喫茶店を開く夢を持っていたという話だったと思うけど。それで奥さまがその夢についてゆけないからって、離婚したって」
「違うんだ」
「え?」
 輝は弾かれたように面を上げ、聡を見つめた。
「君が理解しているのと真実は少し違う。あれがすべてじゃない」
「それは―どういうこと?」
 フと聡が微笑った。哀しみを湛えた微笑みに、輝の心までもが軋む。
 聡はそれまで立てていた長い脚を床に投げ出し、ぐっと身を乗り出して膝に肘をつく。身体の前で、両手をきつく握りしめる。ふさわしい言葉を探しているようでもある。
 とうに癒えたと自分では信じ込んでいた傷口を、もう一度開きたくはないのだ。その出来事が彼にどれほどの打撃を与えたかを想像して、輝は胸がツキリと痛んだ。
 同時に、彼の心をそこまで揺さぶるその出来事―恐らくは、そのことに関係しているであろうと思われる女性に軽い羨望と嫉妬と憎しみすら抱いているのに気づいた。
 それが聡にとって、よほど思い出したくない出来事なのは間違いなかった。
 それでも、辛そうな彼の表情を目の当たりにすると、それ以上、自分の身勝手な感情に浸っているべきではないというのは判った。
「僕が―俺が二十年間、妻だと信じていた女は実は俺ではなく、ひたすら別の男を見ていたんだ」
 振り絞るような口調に、輝は言った。
「もう、良いのよ。あなたが話したくないというのなら、私は無理に聞きたいとは思わない」
 輝が心に重く鬱屈したものを抱えて生きてきたように、聡にだって色々とあるのは当然だ。もっとも、こんな知的で優しくてイケメンの夫を持ちながら、彼の許を去っていく妻の心境は永遠に理解できなさそうだけれど。
 と、聡が真正面から輝を見た。