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雪の華~Wintwer Memories~Ⅲ

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「ここに大きな塊がつかえているような気がして。私の心の中にはぽっかりと大きな穴が空いていて、冷たい塊が詰まって息苦しくて堪らないの。見た目で美人のお姉ちゃんに勝てないのなら、せめて世界をまたにかけて活躍するピアニストになろうと思って、ずっと頑張ってきたのに―駄目だって、君はどんなに頑張っても見込みはないって言われたのよ」
 言いながら拳で胸を叩き続ける手を吉瀬が横からそっと抑えた。
「止めるんだ」
 そこで輝は洟をすすり上げた。
「私ったら、何を言ってるんだろう」
「もう、何も言わなくて良いから」
 吉瀬の声が間近で聞こえたかと思うと、ふいに強く抱きしめられた。
「もう何も言わなくて良い」
 吉瀬の腕の中はいつも温かい。ほのかな雨の匂いが漂ってきて、輝はこの上ない安心感に包まれた。まるで迷いはぐれた雛がやっと探し求めてきた親鳥の翼に抱かれたような気がする。
 確かな体温と匂いを感じた瞬間、緊張しきっていた心の一部がふわりと解(ほど)け、止まりかけた涙がまた眼尻に浮かぶほど安心する。吉瀬の両眼にも光るものがあった。
 その時、輝がクシュンと小さなくしゃみをした。吉瀬が慌てて自分のダウンコートを脱ぎ、輝にかけてくれる。
「駄目よ、こんなことをしたら、吉瀬さんが風邪を引いてしまうわ」
「俺なら、大丈夫だから」
 吉瀬は輝を安心させるように微笑みかけ、まずは輝を床に座らせ、自分はその隣に座った。二人ともに丁度ステンドグラスに背をもたせかける形で並んでいる。
「何から話したら良いか判らないわ」
「何でも。本間さんが喋りたいことから話して」
 うん、と、あどけない子どものように頷き、輝は喋り出した。
「私の名前は知ってますか?」
「うん、知ってるよ。本間輝っていうんだよね」
「そう、ひかる。輝くと書いて、ひかると読ませるの」
 返事がなかったので、輝は少し自嘲気味に言った。
「似合わない名前でしょ」
「そんなことはない」
 今度はすぐに吉瀬の反応があった。
「この名前のお陰で、余計に周囲からは苛められたわ。幼稚園でも〝ブスの癖に、似合わない〟って、随分と男の子たちから、からかわれた」
 吉瀬は思慮深げな瞳を一旦伏せ、それからまた開いた。それは、この場に最適な言葉を探しているようでもある。
「俺は口下手だから、上手く言えないけど。本間さんは外見ももちろん魅力的だけど、何より心の中にキラリと光るものを持っている。そのあなたなりの魅力を大切にしていけば良いんじゃないのかな」
「本当に? 本当にそんなものが私にあるのかしら」
 幾分懐疑的な声を出した輝に、吉瀬が力強く頷いて見せる。
「あるよ」
「それは、どんな魅力?」
 また吉瀬は眼を伏せる。今度はゆっくりと言葉を選ぶように応えた。
「まず、心がとても綺麗だ。それに、とても前向きだ。そうだな、例えていうなら、凜として咲く白百合のような風情がある。俺には、それがいちばんの魅力だと思える。ありきたりの言い方しかできなくて、申し訳ないけどね」
「心が綺麗だなんて言うのは、他にどこも褒めるところがなくて、仕方がないときに言うものよ」
「必要以上に自分を傷つけるんじゃない」
 やや厳しさを声音に滲ませた。
「嘘なんかじゃないし、その場逃れのための科白でもない。第一、俺は息をするように嘘をつくのが得意な男ではないからね。そんな風に女を口説き慣れていたら、今頃、独身じゃいないよ」
「私が白百合?」
 信じられないというように首を振る。と、吉瀬が真摯な眼を向けてきた。
「どうして、あなたはいつもそんな風に自分を取るに足りないもののように思うんだ? あなたがどう思おうが、俺は、あなたという女性を凜として咲く花のように気高い心を持った人だと思うし、そんな風に見える」
「由佳里さんにも似たようなことを言われたわ」
「由佳里ちゃんに?」
「そう。私はもう少し自信を持つと良いってアドバイスされたのよ」
「そのとおりだと俺も思う。あなたは、あなたのままで良いんですよ。言いたいヤツには言わせておけば良い」
どうして、この男の言葉は、こんなにも心に滲みるのだろう。輝はまた泣けてきて、嗚咽を洩らしそうになり慌ててうつむいた。
「輝で思い出したんだけどね。俺の名前も相当変わってるんだ。知ってる?」
 吉瀬が突如として話題を変えた。輝は泣くのを止め、茫然と彼を見た。それで、彼が輝の気を逸らそうと、わざと別の話題を振ったのだと理解した。その優しさにまた涙が溢れそうになるが、ここで泣けば吉瀬の気遣いを無駄にすることになってしまう。だから、泣くまいと歯を食いしばった。
「聡と書くのよね?」
「そう、聡明の聡と書いて、あきら。何で、こんな読みにくい名前にしたのかって一度、親に訊いたことがあったんだ。そうしたら、他人とは違う、どこにもなさそうな名前にしてやりたかったと言われた。そんなの、子どもにとってはえらい迷惑な話だけなんだけど。学校に通うようになってから今まで、俺の名前を漢字で書いて、まともに読めたヤツは殆どいない。大抵は、さとしとか読むから」
 吉瀬は一旦言葉を切り、面白そうに笑った。
「そこからが面白い偶然だ。あきらという名前は早々と決まったが、肝心の字が決まらない。〝明〟なんて書けば、すぐに読まれてしまうから、誰にも読めないような字を親は必死で考えたが、どうにも思いつかず、辞書を引いてみたら、色々と字が出てきて、その中から〝聡〟を選んだって教えられた。その時、その候補の中に〝輝く〟の輝があったって話も聞いたんだ」
「そうなの? 輝を〝あきら〟と読ませるのなんて初めて知ったわ」
「今度、帰ったらパソコンで〝あきら〟と打ってごらん。ちゃんと〝輝〟と〝聡〟が出てくるから」
「それは確かに面白い偶然ね」
「だろ? だから、あなたの名前を見た時、咄嗟に自分の名前の由来を親から聞かされたときの話を思い出してね。でも、幾ら何でも、女性で〝あきら〟はないだろうし、それなら〝ひかる〟の方だろうと見当をつけたんだよ」
「そうだったんだ」
 輝が声を立てて笑うと、吉瀬は頷いた。
「うん、やっぱり、あなたはそうやって笑っていた方がより魅力的だ」
「撮影のときも吉瀬さん、そう言ったわよね」
「聡で良いよ」
「え? あ、じゃあ、聡さんは今と同じことを言ったのよね」
「そうだね。確かに言ったような気がする。俺が思うに、どんな女性でも泣き顔より笑顔が断然良い。女性の涙にはかきたてられるものはあるけど、いつも見ているのなら、やはり泣いているよりは明るく楽しそうに笑っている方が良いからね」
 いつも見ているのなら。吉瀬は深い意味もなしに口にしただろうのに、輝はその何気ないひとことの中にも何かの意味を見出そうとしてしまう。
 もしかして、私は吉瀬さんのことを好き―? 気づいてしまえば、簡単なことだった。出逢ったその瞬間から、彼に惹かれた。そして、知れば知るほどに惹かれてゆくのを止められない。
 こんなに好きなのに、吉瀬に―聡に知られない方が不思議だと思う。だが、輝は気づいていない。聡が教会に飛び込んできたその時、既に彼女は重大な告白を彼にしているのだ。