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雪の華~Wintwer Memories~Ⅱ

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「あっ、わっ、判りまひた」
 今のひとことは岩田にとどめを刺すのには十分過ぎたらしい。何故、もっと早くにこうしておかなかったのかと、その時、輝は真剣に後悔した。愚か者には情けは無用。要らざる情けなんてかけるだけ無駄で、結局、恩を仇で返してくるにすぎないのに。
 まだガクガクと震えている岩田を残し、輝はさっさと歩き始める。エレベーターでは、人事課の鈴木佐枝と一緒になった。輝よりは数歳は年長だが、彼女は既に結婚し一児の母である。数年前に育休から復帰してきたという経緯(いきさつ)があった。
 この鈴木佐枝は見かけは誰にでもフレンドリーで一見、好感が持てるタイプだが、なかなか侮れない。ある意味、岩田や美奈子のように表も裏もなく、どこまでも薄っぺらな連中の方が行動を読みやすいという利点がある。
 対して佐枝のような風見鶏は、誰にでも靡いて迎合する代わりに、本音と建て前があまりにも違いすぎる。愛想の良さと何でも話しやすい雰囲気にうっかり気を許して誰かの噂話でもしようものなら、大変なことになる。
 社内随一の情報通として知られる彼女だが、情報の獲得と同じくらい、情報の漏洩元をバラすのも早いのだ。しまいは皆、警戒して迂闊には近づかないようになるのに、不思議と日々、新しい情報を得ている。中には自分の望む情報を得んがために佐枝に他人の秘密を売り、見返りに情報を得ているような立ち回りの上手い社員もいた。
「おはようございます」
 一応先輩なので、佐枝には慇懃に頭を下げる。
「おはよう」
 エレベーターは佐枝と二人きりだった。佐枝はつつっと寄ってきたかと思うと、輝に早口で告げた。
「用心した方が良いわよ? 社内中に妙な噂が立ってる」
「鈴木さん?」
 輝が眼を見開くと、佐枝は肩を竦めた。
「あなたが私をどう思ってるかくらい想像はつくけど、私はあなたが嫌いじゃない。あなたは他の皆とは違うわ。誰もが他人を出し抜くことしか考えてないのに、あなたは違う。いつも真っすぐ前を向いて、他を寄せ付けない。そういうところが私には到底、真似できないし、凄いと思うの」
 言い終えたその瞬間、エレベーターの扉が開いた。人事課のある六階に到着したのだ。
 だから、気を付けてね。佐枝はしまいは聞き取れないような小声で言うと、何事もなかったような表情で澄まして先に降りていった。後は振り向きもせずに廊下を歩いてく。颯爽と水色のスーツを着こなし、ヒールの音を響かせて行く姿は、ある意味ではOLの模範といえるかもしれない。
 〝情報屋〟と呼ばれて全社員から畏怖され、或いは嫌われている佐枝。そんな佐枝が何故、自分に好感を―少なくとも、あの口ぶりでは悪意は抱いていないように思えた―持ってくれているのか。よくは判らなかったけれど、意外なところで佐枝が見せた好意的な態度に、輝は少しだけ救われたような気がした。
 一人になった輝を乗せたエレベーターは、ほどなく七階に到着した。そのまま総務課に行って自分のデスクに座ろうとしていると、肩を叩かれた。
「輝、ちょっと」
 振り向くと、同じ総務の守口紘子(ひろこ)であった。同期入社で、二年前に結婚したが、今も変わらず勤務している。もちろん同じ歳だ。
「紘ちゃん?」
 紘子とは親友とまではいかないけれど、少なくとも、この会社ではいちばん近しい存在なのではないかと思っている。
「ちょっと話があるの」
 意味ありげな顔で促され、輝は紘子についていった。どこに行くのかと思ったら、紘子は七階の女子トイレに直行した。
 近代的ビルの社員用トイレは常に清掃員が出入りし、掃除も行き届いて気持ちの良い空間を作り出している。
「ここなら、とりあえず誰にも話を聞かれずに済むわ」
 普段から、どちらかといえば屈託ない紘子には珍しい。
「どうしたの、何かあったの」
「空惚(そらとぼ)けないでよ」
 紘子は軽く輝を睨みつけ、声を落とした。
「輝、昨日は誰とどこに行っていたの?」
 そのひとことで、紘子が何を言いたいのか判らないほど愚かではない。ましてや、受付嬢たちの反応から、既にあのことは社員の誰もが知っていると覚悟はしていたのだ。
 輝は小首を傾げた。
「紘子ちゃんは、どんな風に聞いているの、私の噂」
 質問に質問で返され、紘子はうっと詰まった。
「それは」
 口ごもった末、紘子は溜息をついた。
「あなたが妻子ある中年のイケメンに血道を上げた挙げ句、ついにのぼせ上がってウェディングドレス姿で男を教会に呼び出して」
 そこで紘子は輝を一瞥した。
「これは私が言ってるんじゃないわよ。ましてや、信じちゃいないからね」
 輝は紘子より更に盛大な吐息を洩らした。
「大丈夫よ、あなたのことは信じてるから」
 紘子は少しホッとした様子で、それでも言いにくそうに続ける。
「そのイケメンに今すぐ教会で結婚しろと迫ったのに、男が承諾しなかったから、ついにカッときたあなたが自殺未遂を図ろうとしたと、まあ、そういうことになってるみたいよ」
 最早、輝は呆れて物が言えない。何をどうすれば、そういうことになるのだろうか。
「怖ろしい話ね」
 輝にすれば、話の内容は、本人が聞いても笑ってしまいそうな事実とはおよそかけ離れたものだ。だから、怖ろしいというのは、話そのものではなく、事実がたった一日の中にそこまでねじ曲げられ社内中に広まっているという事態なのだけれど。
 紘子はどうやら別の意味に解釈したらしかった。
「本当に怖い話だわ。よりにもよって、あなたがそんな怖ろしいことをしでかすはずもないのに」
 しかしながら、この際、そんなことは些末な話だ。
「今日中には人事部長から呼び出しが来て、事の次第を事細かに訊ねられるかもしれないわ」
「その馬鹿げた噂話を人事部長が鵜呑みにすればね」
 たいした内部調査もせずにそこまで事態が急展開するとは信じがたいが、万が一ということは考えておいた方が良いかもしれなかった。
「美奈子ちゃんは出社してる?」
 美奈子の名前を出すと、紘子は、ははーんと唸った。
「やっぱり、ね。あのお喋り女が拘わってるのね?」
 美奈子は今朝は一旦、出社して急に体調不良を訴えて帰宅したという。
「まだ始業のベルも鳴ってないのに、いきなり退社?」
 あまりにも不自然ななりゆきだ。
「昨日ね、人事部長や社内の主だった幹部の元に、匿名でメールがあったらしいの。その例のあなたの怖ろしい噂話はどうやら、そこからひろがったみたいよ。会社の方でも放っておけなくて、密告者の特定を試みたらしいんだけど、棄てアドを使ったみたいで、特定できなかったって。でも、全部同じフリーアドレスだから、同じ人物の仕業だってことまでは判ってるっていう話よ」
 恐らく美奈子と岩田の仕業だろう。密告したのは良いが、翌朝、出社してみたら事態は自分たちが想像していた以上に深刻になっていた。多分、岩田と美奈子が密告した内容は、現在、社内にひろがっている噂ほどではないだろう。
 独身のはずの女子中堅社員が何故かウェディングドレス姿で町中を中年男とふらついていた―程度のものに違いない。あまりに不自然だから、その女子社員に以後、身を慎むように訓戒して欲しいとか何とか、せいぜいがその程度のものだったはずだ。