雪の華~Wintwer Memories~Ⅱ
打つともなしに相槌を打つ。そんな輝に、吉瀬は穏やかな笑顔を向けた。もう、輝の涙は止まっていた。やはり、彼女がひっそりと泣いていたことをこの男はとうに知っていたのだろう。知っていて、知らないふりをしたのだ。
「そうは言っても、本間さんはまだまだ若いじゃありませんか。あの子たちとさほど歳は変わらないでしょう」
「もうお察しかと思いますが、さっきの女の子は会社の後輩なんです。女の子の方が二十六歳で、一緒にいた男の方が二十七だったんじゃないかしら。付き合ってるなんて、全然知りもしませんでしたけど。吉瀬さんのおっしゃるとおり、歳の差はわずか数歳ですけど、この時期の数歳は大きいですよ。私なんて、もう会社では〝お局〟扱いされてますもん」
「本間さんのように若くて魅力的な女性がお局? それはないんじゃないかな」
吉瀬がやりきれないといったように首を振ると、輝は真顔で応えた。
「例えば吉瀬さんの歳になったときには、私とあの子たちの歳の差もそれほど大きな意味はなくなってくると思うけど、今は大きいですよね。三十過ぎと、二十代半ばっていうのは考え方が全然違います。三十路になると、もう二十代のときのような考え方はできなくなりますから」
「そんなものですかね。僕なんか子どももいないし、今時の若い子の考え方はいまいち判りませんけどね」
それからスタジオに戻った輝は再び着てきた服に着替え、ドレスをハンガーにかけた。アップにした髪はそのままにティアラを壊さないように丁寧に外して鏡の前のテーブルに置いた。
「良かったら、僕の店で熱いコーヒーでもいかがですか?」
吉瀬の誘いは魅力的なものだったが、輝は微笑んで首を振った。
「ありがとうございます。でも、今日はもうこれで失礼します」
「判りました。じゃあ、気をつけて。プリントが仕上がったら、またご連絡しますよ。大体、二週間くらいかかると思います」
「愉しみにしてます」
輝は軽く頭を下げ、スタジオの扉を閉めた。コーヒーを誘われて断った時、吉瀬の端正な風貌を一瞬、軽い失望がよぎったように見えたのは自分の都合の良い勘違いだろうか。
輝は自嘲めいた笑いを洩らした。
バカな私。吉瀬のような良い男が自分みたいな冴えない女を相手にするわけがない。五十歳でバツイチでも、吉瀬は十分すぎるくらい魅力的だ。彼には五十歳という年齢が少しも負荷を与えず、むしろ彼自身の魅力を増しているほどだ。無理に付き合う女のグレードを下げなくても、まだまだ幾らでも彼の恋人になりたいと願う女はいるに違いない。
ああ、もう考えるのは止そう。考えたって、どうにかなるものではない。
輝は首を振り、コートの襟に顔を埋めた。側を駆け抜けてゆく寒風がひときわ冷たく身に滲みる。幸福な時間を過ごした後は、一人の侘びしさや孤独が余計に身につまされた。
十二月に入った街は色とりどりの華やかなイルミネーションに輝き、舗道を行き交う人々は皆、家族連れか恋人で、誰かと一緒だ。
何だか自分だけが世界から取り残されているような気がして、輝は幸せそうな表情を浮かべる人々から眼を背け、足早に家路を辿った。
しかしながら、幸せな記念日はそれで無事おしまい―と思っていた輝の読みは甘かった。翌日の月曜日、いつもどおり定時に会社に到着した輝は、すぐにそれを思い知らされることとになる。
午前七時五十分、会社のビルの玄関を通る。いかにも時代の先端をいくといった雰囲気のロビーはフロアも広く、ゆっりとしている。
出社時間は九時だが、殆どの社員は八時過ぎには出社している。今も次々に社員が玄関を通過していくのに混じり、輝もまた、きびきびとした足取りで歩いていた。
パステルピンクのジャケットに萌葱色のスカートというお揃いのお仕着せを着た受付嬢が揃って頭を下げている。
「おはようございます」
輝のすぐ前を行く人事部長に愛想良く挨拶した後、三人の受付嬢の真ん中が輝を見た。
すぐに右隣を肘でつついている。二人は意味ありげな視線を交わし合い、ひそひそと囁き交わした。
左隣の子もまた何とも形容のしがたい視線で見るともなしにちらちらと輝を窺っている。
―なに、この嫌な感じは。
輝はあくまでも受付嬢たちの反応には頓着しないふりを装った。
「おはようございます」
わざと明るい声音で告げてやると、真ん中の子がただでさえ丸い瞳を更に見開いた。
「おっ、おはようございます」
「朝の出社時間は大勢の社員たちに見られてるわ。あなたたちは会社の顔なのよ。そういうひそひそ話は昼の休憩時間に給湯室でやってちょうだい」
輝はいかにも上司らしく威厳を漂わせた声音で言い置き、そのまま足早に通り過ぎた。
後方で受付嬢たちが何やら騒いでいる声が聞こえた。〝やっだー〟、〝中年女のひがみ〟だとか〝嫁かず後家〟という言葉が混じっている。
刹那、輝の身体がカァーと熱くなった。あれは間違いなく、自分のことだ。〝中年女のひがみ〟はまだ良いとしても、〝嫁かず後家〟はあんまりだ。耳にしたい言葉ではない。
恥ずかしさと屈辱に頬が熱くなり、涙が溢れそうになる。滲んできた涙をまたたきで散らし、下唇を故意にキュッと噛んだ。あまりにも強く噛みしめたせいか、口の中に血の味がひろがる。
あまり他人に逢いたい気分ではなかったので、いつものようにエレベーターではなく、階段を使った。流石に五階で息切れしたため、そこからはエレベーターに乗ることにした。
五階の廊下を歩いていると、向こうから歩いてくる人物と危うく衝突しそうになった。考え事をしていたのがまずかったようだ。
「ごめんなさい」
慌てて謝ると、相手はギョッとしたように飛びすさった。何とその人物は岩田貢であった。
「ほ、本間さん」
情けなくも声が裏返っている。社内の窓口である受付嬢が知っていて、あれほど露骨な反応が返ってくるのだから、既に〝噂〟は社員すべてが知っているはずだ。
よくもまあ、昨日の今日で、そこまで広められたものだと敵ながら、あっぱれと褒めてやりたくもなる。
「おはよう」
せめてここは威厳を保ちたいと受付でしたのと同じように、先輩らしく鷹揚に構える。
「おっ、おはようございます」
岩田は顔面蒼白でぺこりと頭を下げると、狩人を前にした臆病な野ウサギのように去ろうとする。
少しく後、輝の凜とした声が廊下に響き渡った。
「岩田君」
「はっ、はい?」
声はかなり焦っていて、先刻より更に切迫した感じだ。
輝はつかつかと近寄ると、岩田の顔を意味深に覗き込んだ。
「ネクタイが、曲がってる。月曜の朝は副社長自らがチェックするときもあるから、十分気をつけてね」
「は、はいっ」
〝もう、行って良いれすか〟と、岩田はゾンビに遭遇した弱者のように震えながら言った。哀しいかな、呂律が怪しくなっている。
輝は更に一呼吸置いた。相手の恐怖と緊張を増すために効果的な時間を計っていたのだ。
「それから」
輝は更に岩田の顔に顔を近づけた。
「口は災いの元ともいうわ。私は以前にも一度、そのせいで大変な迷惑を蒙ってるの。だから、気をつけた方が良い。三度目はないと思うわよ、私って、こう見えても、あまり気が長い方じゃないんで」
作品名:雪の華~Wintwer Memories~Ⅱ 作家名:東 めぐみ