雪の華~Wintwer Memories~Ⅱ
が、生まれて初めて、男の腕に抱かれている輝の方は堪ったものではない。もう心臓はバクバクと破裂しそうな音を立てているし、身体中の血が顔に集まってきたのかと思うほど頬が熱い。
しかも、撮影の前に、防寒用に着てきたコートは脱いでしまっている。今は薄いドレスの布地越しに吉瀬の温かな手の感触がしっかりと伝わってきていた。
「良かった」
吉瀬が微笑んだ。その瞬間、ただでさえ烈しく脈打っていた輝の心臓は破裂しそうになった。
何て魅力的な笑顔なの! 若々しい外見はどう見ても四十歳程度にしか見えないけれど、それでも間近でよくよく見れば、確かに知的な光を湛えた深い瞳の側にはうっすらと皺が刻まれている。
だが、その皺さえも、吉瀬の場合は彼の魅力をいっそう引き立てている要素にしかならない。時は彼の上を優しく通り過ぎ、穏やかに刻まれた年輪は、彼という男により深みを与えたのだろう。吉瀬聡という男に限っていえば、彼の外見上、所々に見られる時の流れた痕跡はけして醜いものではなく、むしろ、彼をより輝かせているように見えた。
それは同じイケメンと形容しても、若い男にはない、例えていうなら燻し銀のような魅力とでもいえようか。逆にいえば、この年代の―人生を自分の脚で歩き、誠実で真摯に歳を重ねてきた男だけが持つ深みのようなものであった。
この時、輝はまさに恋に落ちたのだった。だが、輝自身はまだ自分の恋心に気づいてはいない。吉瀬の魅惑的な笑顔にボウとしている輝の耳に、吉瀬が顔を近づける。
少し手を伸ばせば、もう顔が重なり合ってしまうほど、互いの呼吸が聞こえそうなほどの至近距離だ。
「僕があなたの美しさに心奪われたのはもちろんだけど、いちばん綺麗だと思ったのは、実は涙でした。初めてウェディングドレスを着た嬉しさに涙するあなたの無垢な心に打たれた」
囁き声が輝の耳朶をかすめて通り過ぎる。
「本当の花嫁になった時、あなたの美しさはもっと輝きを増すでしょう。あなたのような女性を妻にできる男は幸せ者だ」
からかわれているのかと思い、吉瀬の顔をそっと見上げても、迫ってくるのはただ真剣すぎるほど真剣な表情であった。その真摯さは、到底、吉瀬得意のユーモアなんかではなさそうだ。
輝がもう何も言えなくなってしまった時、背後で黄色い声が上がった。
「先輩? もしかして、本間先輩じゃないですか~」
刹那、悪寒に近い嫌な予感が走った。この甲高い声は間違いなく―。
「やだ、やっぱり、先輩じゃないですかぁ」
振り向く前に、声の主が回り込んできて、輝の前に立った。
美奈子があからさまに不躾な視線を向け、吉瀬はさりげなく輝から離れた。
「美奈子ちゃん」
「どうしたんですか? まさか、こんなところでお逢いするなんて、思ってもみませんでしたよぉ」
言葉には出さないが、〝何で、独身女がウェディングドレス?〟という問いが美奈子の愛らしい顔にちゃんと書いてある。
いつもはこの若い女の子特有の語尾を上げるしゃべり方が癇に障ってならないのだけれど、流石に今日ばかりは気にしている余裕はなかった。
「美奈子ちゃんこそ、どうしたの?」
年上かつ会社の先輩であるということを示すために、わざと上から眼線的な態度でゆっくりと言う。
「あたし? あたしは今日、岩田君とデートしてる最中なんですぅ」
そこで、輝の悪夢は決定的になる。何で、よりにもよって、今日、いちばん聞きたくない名前を聞かなければならないのか。教会の前で不謹慎かもしれないが、思わず天を呪いたくなった。
岩田貢。四年前の最低最悪のバレンタインデー。間違って長瀬敦也に渡すはずのチョコレートと手紙を隣の席に置いてしまい、それが岩田の口から社内中にひろまってしまったという忌まわしい過去は忘れたくても忘れられたものではない。
それにしても、岩田と美奈子が付き合っているなんて、知らなかった。まあ、どちらもお喋りで詮索好き、軽い若者同士でお似合いのカップルではある。
それに、他人の噂は好き放題に撒き散らすヤツに限って、存外に自分の秘密だけはしっかりと保持するものである。恐らく、岩田と美奈子が交際しているというのは、社内でいちばんの情報通といわれている人事課の鈴木佐枝も知らないだろう。これが芸能人であれば、すっぱ抜き記事になりそうだ。
などと、あまりの衝撃にどうでも良いことを考えていると、意味深の上目遣いに見上げてくる美奈子の眼と遭遇した。
「先輩、まさか結婚式の真っ最中だったとか言いませんよね? まさか、そんなことはあり得ませんよね」
聞きようによっては何とも失礼な言い方ではあるが、この年代の若い子の言動にこれくらいでいちいち腹を立てていては、一緒にやってなどいけない。
美奈子の眼は今や好奇心にらんらんと輝き、視線は輝の傍らに立つ吉瀬に注がれている。
「すっごく素敵な男(ひと)ですよね。先輩の彼氏?」
ここで輝の我慢も限界に達した。
「良い加減にして」
相手の気持ちを考えない言動に輝は慣れているけれど、吉瀬まで巻き込むのは、彼に対して失礼だ。
「この人はカメラマン。彼氏でも恋人でもないわ」
「ええっ、何で独身なのにウェディングドレス着てカメラマンと一緒にいるんですかぁ?」
この後で、〝美奈子、わかんなぁーい〟と続きそうだったので、輝は慌てて吉瀬に言った。
「吉瀬さん、ここはもうこれくらいにして、スタジオに戻りましょう」
「判りました」
吉瀬も事情は察していたのか、既に機材はすべてバッグに詰め込み終えていた。
「じゃあ、これで」
輝はお愛想程度に声を掛けると、吉瀬と共に美奈子や岩田に背を向けた。岩田は少し離れた場所に佇み成り行きを見守っていたらしい。背を向ける寸前、岩田が美奈子の方に近づいてゆくのが視界の端に映った。
「あれじゃねえの」
という岩田の声が聞こえてくる。
「最近、流行ってるらしいぜ。独身の中年女が嫁き遅れになる前にウェディングドレスで一人記念写真ってのがあるって」
「えぇっ、やだ、なに、それー。惨めすぎるぅ」
美奈子の騒がしい舌っ足らずな声が風に乗ってきた。
「―大丈夫ですか?」
吉瀬が気遣うように輝を見た。
輝は吉瀬にこれ以上迷惑をかけないように、努めて明るい笑顔を作った。
「大丈夫です、私なら。あの程度のことなら、もう慣れてますから」
その言葉に、吉瀬が息を呑んだ。
「心が強くなきゃ、生きてはいけません。大丈夫です、私、三十一年間、こうしてずっと生きてきたんです」
言葉とは裏腹に声はわななき、眼尻から熱い滴が流れ落ちた。吉瀬が涙に気づいたのかどうかは判らない。鈍感な男ではないようだから、気づいたとしても不思議はないが、彼にはそれを表に出さないだけの分別はあるはずだ。
気のせいか、彼は泣いている輝の方は見ず、敢えて正面を見つめて歩いている。しばらく二人は無言で並んで歩いた。
「風邪引きますよ」
吉瀬がそっと背後からコートをかけてくれた。あまりに動転していたために、コートを着るということも忘れていた。
「ありがとう」
消え入るような声で言うと、吉瀬が溜息混じりに言った。
「なかなかですね。今時の若い子たちは」
「本当、なかなかです」
作品名:雪の華~Wintwer Memories~Ⅱ 作家名:東 めぐみ