雪の華~Wintwer Memories~Ⅰ
流石にあの〝バレンタインチョコ事件〟から四年が経った今、当人である輝の前で当時の話を持ち出す愚か者はいない。―と思っていたのだが、美奈子は禁忌を破り、あの話を持ち出してしまった。いや、何もあの事件そのものに触れたわけではないが、要するに長瀬敦也の名は、あの日の事件とはセットになっており、輝の前では禁句になっているのだ。
それは、当時の事件を知る者であれば、よく知っているはずなのに、その点、美奈子もまた岩田同様、かなり浅慮であったといえる。
一週間前、愚かにも輝の前でけして言ってはならない名前を持ちだし、美奈子は大いに〝本間の局〟の怒りを買った。明日の会議までに資料を百部コピーするという任務を課せられ、美奈子はデートの約束をすっぽかしてまで泣く泣く残業することになった。
もちろん、その実に不愉快極まる話を美奈子が訳知り顔で持ち出すまでは、輝も残ってコピーを手伝うはずであった。しかし、何で、禁忌を破ったバカな後輩に先輩としての温情を示す必要があるだろう?
まあ、このことで、またしても〝本間の局〟の怖ろしさと陰険さが社内中で取り沙汰されるだろうが、そんなのは意に介したことではない。いつの世でも可愛くて若い子はちやほや大切にされ、ブスで眼がねのオールドミスには厳しい眼を向けられる。
それが、哀しいかな、現実だ。
輝の記憶は更に遡っていった。人生三十一年の中でも、バレンタインチョコ事件に次ぐ、屈辱といえば、やはり、あれ以外にはない。
高校二年の夏休み、父方の従兄の裕太とN駅前に行くためにバスに乗っていたときのこと。その日、亡くなって久しい祖母の法事が自宅で行われた。血縁といっても近い者たちだけでごく内輪に行ったので、集まったのは父の妹―つまり、叔母夫婦とその息子である裕太だけだった。
法事が終わり、叔母夫婦と両親は少し離れた墓参りに行った。裕太と輝は二時間後にN駅の地下街で両親たちと合流することになった。そこで落ち合い、昼食を一緒に食べようということになったのだ。
裕太は従兄といっても、二週間違いで生まれた同い年の男の子だった。どうやら、その日、彼は美人の姉に会えるのを愉しみにしていたらしい。が、生憎なことに、姉は既に結婚して最初の子を妊娠していた最中であった。悪阻が烈しくて入院していた姉は、法事に参加できなかった。
姉の不在を知らなかったらしい裕太は露骨に落胆し、輝といても終始、不機嫌な態度を隠そうともしなかった。N駅まではバスで十数分ほどかかる。二人でバスに乗り込んだ最中、裕太は友人と遭遇したらしい。
―幡野、そっち、お前の彼女?
好奇心を剥き出しにして訊ねてきた友人に、裕太は滑稽なほど狼狽えた。
―まっ、まさか。誰がこんなスカ女、彼女にしたりするかよ。冗談もたいがいにしてくれよな。
〝スカ女〟。そのひとことが十七歳の少女の心をどれだけ傷つけたか。恐らく、あれから長い年月が経った今、裕太はあの出来事を憶えてさえいないだろう。しかし、言われた方の輝はいまだにまだ、あの出来事に囚われたままだ。
よく当たりくじなどでハズレが出た場合、〝スカだった〟という表現を使う。つまり、輝はスカ―ハズレなのだ。単にブスとか〝イケてない〟と言われるより、よほど辛かった。
その裕太は二十八歳で結婚した。姉ほどではないにせよ、相手は社内恋愛で知り合ったという辻希美似の可愛い二つ下の女の子だった。今では二人の娘にも恵まれ、幸せに暮らしていると聞く。
一方の自分はどうだろう。外見が〝スカ〟の女は人生もやはりハズレくじを引くしかない運命なのだろうか? 三十を過ぎて、結婚どころか彼氏もいないし、恋バナの一つもないなんて、最低最悪の人生ではないか。
恋も仕事も夢も、すべてがハズレだ。確かにN商事は有名企業だけれども、別に今の仕事がさして重要というわけでもない。勤続九年にして、さしたる功績もなく、失敗もなく、ただ日々の仕事を無難にこなしているだけだ。もとより、やり甲斐を感じているわけでもなかった。
そこで、輝の脳裏にまた、ある光景がフラッシュ・バックする。
蝉時雨が降る暑い夏の午後。大学の教室で投げつけられた、言葉。
―君には無理だ。
高校二年の〝スカ女〟の言葉とともに、もう一つ思い出したくない出来事だ。
輝が進学したのは音大であった。自宅からも通える隣町のS音大のピアノ科に在籍していた彼女は卒業後、中学の音楽教諭を志望していた。もちろん、それは一時的なもので、教師をしながら資金を貯めて、いずれは海外に留学して世界的にも有名なピアノコンクールに出るのが夢だった。
その先にある最終目標はピアニスト。大好きなピアノを弾いて身を立てたいと考えていたのだ。
だが、当時、輝を担当していた初老の教授は気の毒そうに言った。
―非常に言いづらいことだが、本間君。君の実力では、ピアノだけで暮らしていくことは無理と言わざるを得ないね。
彼が言うには、ピアニストになるには生来の才能といったものがやはり必要になるらしい。輝には生まれながらのピアニストが持つ華というものがない。努力家だから、練習を積んでプロはだしの腕前にはなれるが、そこから先は難しいということだった。
―ピアノ科を卒業して、プロのピアニストになれるのはほんのひと握り程度だよ。ここは途方もない夢のようなことは諦めて、現実を見た方が良い。君は成績も良いから、教員採用試験にも合格するだろう。教員になるもよし、ずっとピアノ関係の仕事をしたいのなら、ピアノ教室を開くといった道もある。
教授は何も輝を貶めようとしたわけではなかった。むしろ、老婆心で―現実を見てきた先達として、適切なアドバイスをしたにすぎない。けれど、輝の心はあの言葉で、絶望の色に染まった。
甘いといえば、甘いのかもしれない。教授の言うことは正しい。ピアノ科の卒業生でも、一般企業に就職する者が殆どのご時世である。ましてや、プロのピアニストとして活躍しているのは、本当に稀だといって良い。
だから、素直に忠告に従うべきだったのだろう。でも、輝は極端な選択をした。ピアノそのものをきっぱりと断ったのだ。卒業後はピアノとは一切縁のない今の会社を就職先に選んだ。今、輝がピアノを弾くことはまったくない。
大学時代のあの日、教授から夢を諦めるようにと宣告されたとき以来、自宅のピアノは蓋を開けることもなく閉ざされたままだ。それまでは一日数時間は練習して、父親に煩いから良い加減にしてくれと言われたほどだったのに。
輝にしてみれば、ピアノ教室や中学の音楽教諭になりたいわけではなかった。むしろ、中途半端な形でピアノに拘わり続けていることの方が辛かった。だから、あの日から、ピアノには拘わりのない世界で生きていこうと思ったのだ。
何故だろう。外見がスカだから、運命もハズレ続きなのか。それとも、心までいじけてしまっているから、必然的に運命も悪い方へと流れていってしまうのだろうか。
やること、なすことがすべて上手くいかない。このまま歳を重ねて、老いていったら、その先には何があるのだろうか。今よくいわれている〝おひとりさま〟の老後? それとも、こんな自分にまだ運命の出逢いがあるとでも?
作品名:雪の華~Wintwer Memories~Ⅰ 作家名:東 めぐみ