フェル・アルム刻記
驚いたジルは、あたふたして言った。
塔の上方から、ぱらぱらと石片が落ちてくる。サイファが上を見上げると、翼を持った黒い化け物が塔をかすめて市中に向け飛んでいくのを見た。
「なんだあれ? ドゥール・サウベレーン!?」と、ジル。
化け物の姿はまるで、伝承に出てくる龍のよう。龍が飛んでいく先にあるものは――。
「あいつ、まさか、王宮に向かおうというの!?」
「陛下! はやくこちらへ! 塔が崩れます!」
手招きする衛兵に従い、サイファとジルは駆け足で城壁をあとにした。
しばらくして――。
ずう……ん!
化け物の激突によって不安定になった尖塔の上方が、地面に落下し砕け散ったのだ。振動はサイファ達にも伝わってきたが、彼女らは立ち止まらず、ひたすら王宮へと急いだ。
「ねえ、姉ちゃん、『陛下』って?」
先ほど衛兵が言った言葉についてジルが訊いてきた。ジルは、サイファの身分を知らないのだ。
「……あとで話すから、わけは。とにかく、走るんだ……!」
息が切れてきたサイファは、苦しそうに言った。
まさかアヴィザノが攻撃を受けるなど、考えもしなかった。なぜ? どうして? 王宮に近づくにつれ、そんな想いが去来するのだった。
「あいつ……龍ってやつなのかな?」とジルが言った。
(龍……?)
あの姿は紛れもなく龍だ。しかし龍など寓話上のみの存在だったはず。想像上の生き物を目の当たりにして、サイファは現実と想像の境がどこにあるのか、一瞬戸惑った。
突然の事件に市中は騒然となっており、アヴィザノの衛兵達も市民を鎮まらせるのに手間取っている。
そんな中をかいくぐって走ることしばらく。アクアミン川の対岸に、せせらぎの宮を見ることが出来るようになった。川岸にはすでに多くの市民が詰めかけ、固唾をのんで成り行きを見守っている。
黒い龍は、“星読みの塔”を旋回している。
果たして、奴がいつ攻撃を仕掛けるのか。今のサイファには、宮中の人間の無事を祈るしかなかった。
走るのをやめたサイファは胸を押さえ、ぜいぜいと息を切らしている。対して、ジルは平然としていた。
「姉ちゃん? まだあいつ、攻撃してないよ」
「そう……だな…でも……どうして?」
とっくに王宮に侵入していた黒龍は、未だに攻撃をしていない。城壁の尖塔を打ち壊せるほどの破壊力を持っているというのに、である。龍は巨大な翼をばたばたとはためかせながら、星読みの塔の頂上を窺っている。
「あれは……」
ふとサイファは、何者かが化け物と対峙しているのに気付いた。塔の頂上、龍に剣を突きつけている人物。そしてまた龍も彼を凝視したまま動かない。
「姉ちゃん、見える? あの人……すごい“力”を持ってるよ! そう感じない?」
やや興奮気味に、ジルはしゃべった。
「いや……分からない。しかし、何者だ……あれは?」
額にわき出てくる汗を拭うと、サイファはその人物を見つめた。ただ者ではない。それだけはサイファにも分かった。
「な……馬鹿なっ!」
サイファはとっさに叫んだ。頂上に立つ剣士が屋根を蹴ったからだ。しかし、塔の高さは一フィーレ弱。あの高さから落ちれば、とても助かるものではない。化け物の巨躯に怯え、狂気に陥ったのか。
龍は、唐突な自殺志願者を哀れむかのように、ゆっくりと爪を振り下ろした。
だが剣士は、それを予期していたのか、剣を頭上に掲げ、防戦する。
しかしほどなく、龍の爪は塔の壁に突き刺さり、剣士も、地面に激突するのは免れたものの、運命はそこまで。壁に押しつけられた彼は、鋭利で巨大な爪の餌食になるのだろう。その瞬間、傍観をしていた市民達から声があがった。悲鳴、諦念――それは人によって様々だった。
サイファは何も言えず、呆然とただ立ちつくしていた。やはり駄目だったか、という諦めの念。
「サイファ姉ちゃん。……まだあの人の“力”を感じるよ……」
「え……?」
見ると、いかな運の強さか、剣士は龍の爪と爪の間に身を隠しており、剣を切り返して彼は、すと、と龍の手の上に立ち、再び剣を構えた。
わあっ……と、市民から今度は歓声がわき起こる。命をかけて化け物に立ち向かう剣士の勇姿に、市民は一瞬にして虜になったようだ。サイファも例外ではなく、剣士の無事に安堵の息をつき、どうか龍を倒してくれ、と強く念じた。
龍が腕を左右に振り、剣士を払い落とす素振りを見せた時、剣士は人間離れした跳躍力を見せ、龍の頭上に躍り出た。
龍も即座に上を向き、体内に宿す黒炎を標的に吹き付けた。
しかしそれは剣士の身体に届くことがない。彼の前に、目に見えない強固な鉄の壁でも創られたかのように、黒炎が遮られたのだ。剣士は剣を一閃、吹き荒れる炎を、持ち主である龍に叩きつけた。思いがけぬ反撃に遭った龍は、天にとどろくような叫び声をあげた。
剣士は、相手が怯んだ隙に容赦なく必殺の一撃を叩きつけようとする。彼は一度塔の頂上に着地すると、再び屋根を蹴り、敵の上遙か高く跳躍した。剣士がおもむろに剣を掲げると、剣もそれに呼応するかのように蒼白い気をまとった。その気はどんどんと膨らみ、目視にして剣の倍ほどの長さにまでなったちょうどその時、剣士は龍の頭上に降り立った。
「ぬうん!」
気合い一声、剣士は闘気をはらんだ剣を振り下ろす。龍の口から悲鳴とともに黒炎がほとばしり、星読みの塔の屋根を瞬時に焼き払うが、それも最期のあがきとなる。龍の頭部を斬り、薙ぎ払い、また斬りつける。人の域を越えた剣士の早業は、剣の持つ蒼白い光を残像として生むほどだ。
それが何撃続いたであろうか、剣士は最後に深々と眉間に剣を突き立てるとそのまま飛び降り、高さなどまるで関係ないようなそぶりで着地した。
その時、龍の身体は異様に膨らみ、爆発を起こしたかのように、身体の内側から黒い炎が飛び散る。
「私は“宵闇の影”。覚えおくがよい。いずれまた相まみえるぞ、デルネアよ!」
いまわの際、龍は剣士にそう言い放ち、霧散した。
デルネアと呼ばれた剣士は鼻で笑う。汗一つかいていない。彼はおもむろに剣を鞘に収めると、人々の目を気にすることなく、宮殿の中へと姿を消した。
化け物の侵入と、それを撃退した英雄の出現に、人々はざわめいている。市中は未だに混乱しているものの、災厄が去ったことで、これ以上の騒動にはならないだろう。
「ジル、ちょっと」
サイファはジルに、自分についてくるよう目配せをし、路地裏へと歩き出した。