フェル・アルム刻記
三.
「まったく……。いったい何だったんだ、あれは?」
路地裏。ジルが手頃な樽の上であぐらをかくと、サイファが訊いてきた。
「何って……。さっきも言ったけど、ドゥール・サウベレーンでしょ。見た目は」
「どぅる――なんだって?」
「龍だってば。さすがのおいらもちょっとびびったけど」
「そうだよな……ジルにも、やっぱり龍にしか見えないか」
ひとり納得するサイファ。
「でも……龍など、物語の中の生き物だと思ってたのに……」
それを聞いたジルは、意外そうな顔をしてしげしげとサイファを見つめる。
「私に何かついてる? それとも塔の破片で、どこか怪我してるとか?」
サイファは髪の毛を手で払い、頬を拭ってみる。別段何もないようだ。
「うんにゃ。何もついてないよ。それに姉ちゃんはいつもきれいじゃない。男勝りかもしれないけど。おっとっと」
最初に出会った時にどつかれたことを思い出し、ジルは口を塞いだ。
「……からかうもんじゃない」
ちょんと、ジルの頭をこづくサイファ。
「ジルがまじまじと見るから、どこか変なのかと思ったのだ」
「ああ、そのこと」ジルは両手を頭の後ろに組む。
「だってさぁ、龍なんて、アリューザ・ガルドの歴史で言えばディトゥア達と同じくらい古ーくからいる連中じゃない。ほんとにいる生き物だよ? 人間にとっては珍しいかもしれないけど、別に不思議がること、ないんじゃないの?」
と、さらりと言ってのける。
「……ジルよ」
サイファはジルと同じ樽の上に腰掛けた。
「なあに? 姉ちゃん」
「一週間ほど前か、私達が最初に会ったのは」
サイファの言葉に、ジルはうなずく。
「で、今日で会うのは三回目、だな?」
「うんうん。おいらの泊まってるとこに来てくれたよね。おいらも姉ちゃんの家にも遊びに行きたいなあ」
「え、しかし、私の家はだな……」
言いつつ、話が逸れていきそうなのに気付いたサイファは、話を元に戻す。
「ではなくて! 私が言いたいのは、ジルの話してることが、分からなくなる時があるってことだ。自慢じゃないが、私は今までかなりの本を読んできたつもりだが、それでも、さっきのドゥなんとかやらのことを私は知らなかった。……それなのにジルは、あたかも『こんなのは知ってて当然』のように話す。だから私は訊きたい。どこでそんな知識を身につけたのだ?」
「ふむう……」ジルは上を見上げ、唸った。
「ああ! この空間じゃあ龍は知られてないのかな? そういうことかな? うんうん」
ジルはつぶやき、ひとり納得した様子だ。
「……ジル。訊きたいのだ。ただでさえ、ここのところの異変続きで頭が痛い問題を抱えているんだ。これ以上私を混乱させないでほしい」
サイファはジルの両肩に手を置き、真摯な表情でジルの瞳を見つめた。
「しっかし……。信じてもらえるのかなあ」
「私はそれほど頭の堅い人間ではないつもりだ」
「じゃあ、話してもいいけど。おいらにも一つ教えてくれるかい? さっきの兵隊が呼んでた、『陛下』ってのさ」
「……交換条件、てわけか」
ジルはうなずいた。
「そうだな。『わけはあとで話す』と言った手前もあるし……」
サイファは人差し指を唇に当てる。彼女が考え込む時の癖だ。ややあって、
「……これを人に話すのは、最初で最後にしたいんで、誰にも話さない、と約束する?」と言った。
ジルは、こくこくとうなずいた。
「つまりだな」
サイファは声色を落として言葉を続けた。
「私がドゥ・ルイエ皇である、ということなのだ」
ルイエとしての尊厳を持ち、毅然として言い放った。それを聞いて、ジルは押し黙った。
(驚いたのか、それとも私の言うことを信じてないのか……)
サイファは思った。
「あのさぁ……姉ちゃん」
ジルが申しわけなさそうに訊いてきた。
「何か?」
ルイエとして、彼女は答えた。少しは口調に威厳を持たせたつもりだ。もっとも、路地裏で酒樽に腰掛けている国王に、品格も何もあったものではないが。
「腑に落ちぬというのなら、申してみるがよい」
「姉ちゃん、それって、なんなの?」
がっくり。
彼女の動作を表すなら、これこそまさに相応しい。サイファは肩を落とした。ドゥ・ルイエの名を知らぬ者など、フェル・アルムにいるはずがないのに。
「……今度こそ本当に、私をからかってるだろう?」
「違うよう! ほんとに、ええと、『ドゥルなんとかこう』っての、知らないんだってば!」
ジルは、どうやら本当に知らないようである。やれやれと、サイファはため息をついた。
(この坊や……どこで生まれたんだ?)
サイファは気を取り直して、話し始めた。
「ドゥ・ルイエっていうのは、フェル・アルムの国王の称号であり、名前なのだ。私がこのフェル・アルムの王だから、さっきの兵士も『陛下』と私を呼んだのだ。分かるだろう?」
「姉ちゃんが王様だって?! ……うそだあ」
ジルは、けたけたと無邪気に笑う。
「嘘なものか!」
サイファもむきになる。結局のところ信じてもらえなかったことが腹立たしく、キッとジルを睨み付けた。二十歳を過ぎたとはいえ、サイファにはまだ純粋な子供らしいところが見え隠れする。
「……分かった」
すく、と樽から立ち上がると
「なら、ついてくるがよい。私の家にジルを入れてさしあげる!」
サイファは言い放った。