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フェル・アルム刻記

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二.

 七月三日。
 ここはアヴィザノの中で一番の高さを誇る城壁の尖塔。青く澄み渡った空は遙かスティンの山々を越えるまで続いているのが分かる。しかし、何かが今までとは違っていた――。

 サイファは北方の空を一目見るなり、顔をしかめた。
「空が黒ずんで見えるあたり。あのあたりは“果ての大地”であったな?」
 と彼女は、そばでかしこまっている衛兵に『失われた言葉』で尋ねた。
 年老いた衛兵は静かに、はい、とだけ答えた。
 サイファが指さすのは、スティン山地も越えたさらに北の空。まるで線を引いたかのように、くっきりと色が分かれている。そこから先にあるのは、夜のように暗い空だ。黒雲が覆っているからではない。空そのものが黒いのだ。まるで陽の光を拒絶するかのように。
「あの異様な空を創り出したのもニーヴルの仕業だというのか? 彼らも我々と同じ人間。自然をも動かしてしまう力を持ちうるとは、私には到底思えぬのだが……」
「陛下は、ニーヴルの肩を持つおつもりですか?」
 衛兵に一瞥をくれると、サイファは静かにかぶりを振った。
「……失礼しました。出過ぎた言葉、平にご容赦下さい」
 サイファは半ば困惑した表情で、しかし穏やかに「おもてをお上げなさい」と言った。
「そうかしこまらなくていい。今の私はルイエをやっているつもりではないのだから。見張りの塔に勝手に上って、衛兵を困らせている街の人間、とでも思ってくれていいのだよ?」
「は……」
 衛兵は一礼をすると、サイファの見ている北の方角を見る。
「すまないな、私の勝手な都合で立場を変えて。貴君にも迷惑をかける」
「そのような……もったいないお言葉」
「かしこまらなくていい、と私は言ったわ」
 彼女は意識的に、普段は使わない女性の言葉遣いを選んだ。
「この塔の下で待ってくれてる坊やが私にするように、接してくれたほうがむしろ気が楽なのよ?」
「あやつか……」
 彼のことを思い出した衛兵はしかめ面をする。あれは元首に対してとる態度ではない。老人の目にはさぞ横柄に映ったことだろう。
「陛……あなたも、なぜあの子供と遊んでいらっしゃる?」
 サイファは眉間にしわを寄せる。
「ジルを悪く言うでない。子供らしい、いい表情をしているし、何よりジルの感覚は時として新鮮で、鋭い。私も勉強をさせてもらっている。私は好きだぞ、ああいう子は。それから――」
 口を挟もうとした衛兵を止めるかのように、サイファは言葉を続けた。
「さっきの話だが、むろん私とて十三年前のニーヴルのなしたことが正しいとは思ってはいない。だが、問題としているのは現在のことなのだ。ニーヴルが今現れたなどという話は、正式にはどこからも伝わってきていないのだぞ?」
「しかし、長きにわたる歴史にあって、国の神聖を侵したのは彼らのみです。ニーヴルの残党が今般の事件の元凶である、と考えるのが一番適切と思っております」
「それは……貴君の考えなのか?」
「いえ。しかし、少なくとも私を含めアヴィザノ市民の多くの思うところでありましょう、おそれながら……。我々が長きにわたり積み上げてきた常識からでは、余りに解せないことなので、そう考えざるを得ません。このような奇怪は……」
(この老人も、頭が堅い……)
 サイファの印象は正しい。このような人物が多いからこそ、単なる風説が常識であるかのように捉えられ、いずれ真実と認識されてしまうのだ。真相は誰にも分からないというのに。
 何より問題なのは、昨今の不可解な事件が、十三年前のニーヴルの反乱の延長として捉えられていることである。サイファは、十日ほど前の“神託”を思い出していた。

[大いなる“神”クォリューエルが、神君ユクツェルノイレに告げた言葉を申し上げます。スティンの地において不穏な匂いあり。それはかのニーヴルをも凌ぐものであるとのことです。災いの種を調べ、取り除くため、全ての疾風をスティンに送り込むよう。災いが大きくなる兆しがあれば、すぐさま“烈火”を差し向けるよう、陛下にお願い申しあげます]

 あの時司祭が言った言葉だ。神託を受けたルイエが一言命令を下せば、烈火は即座に動くのだ。
 サイファは司祭を恐れていた。遙か北方の異変とはいえ、この異常は司祭も分かっているはずである。
 まさか、烈火を送り込むようなことになるのだろうか?
 十三年前の、あの悲劇がまた起こるのだろうか?

 烈火。
 フェル・アルム中枢が誇り、ドゥ・ルイエ皇に絶対の忠誠を誓う精鋭の騎士達。フェル・アルム究極の戦闘集団である。
 帝都アヴィザノには常時五百人の烈火がおり、主に宮殿の警備に当たっている。そして非常時には、いつでも決起出来る体制を整えている。アヴィザノ周囲の中枢都市群には、普段は衛兵や傭兵として生活していながら、ひとたび召集がかかれば烈火となる者達が二千人を数える。
 十三年前のニーヴルとの戦いにおいて、戦いに終止符が打てたのは、彼ら烈火がいたからこそだ。とはいえ、あの戦いにおいては、烈火ですらも千人以上の戦死者を出したのだが。
(もっとも、各地の衛兵や傭兵など、一般の兵士達の死者数は尋常ではなかった。一説には七千人を越すとさえ言われている)
 国王《ルイエ》の命令には絶対従うのが烈火である。仮にルイエが、『北方都市全てを焼き払え』と勅を発すれば、烈火は感情に左右されず、迷うことなく完遂するだろう。そのために自分達の命を落とそうとも、家族が犠牲になろうとも。
 それゆえにルイエは司祭を、そして彼が出すかもしれない神託を恐れるのだ。

* * *

「陛下、前方を!」
 衛兵が叫ぶ。
 その張りつめた声でサイファは我に返った。北の空から黒い物が一つ、こちらに向かってものすごい速さで飛んで来る。
「あれは……まさか……化け物というものか?」
 ルイエがそう言っている間にも、黒い影はぐんぐんと尖塔に向けて近づいてくる。遠目からは鳥のようにも見えるそれは非常に大きく、翼の端から端まで三十ラクはゆうにある。
「陛下、お逃げ下さい! 彼奴《きやつ》め、あの様子ではこの塔にぶちあたりますぞ!」
 衛兵は塔を守るつもりなのか、槍を手に取って塔の外に出ようとしている。だが、あれが人間ひとりで太刀打ち出来る相手ではないことはサイファにも分かった。
「分かった! しかし、貴君も一緒にだ!」
「……はい?」
「何をしている、来い! 降りるぞ!」
 衛兵の手をつかむと、サイファは階段を駆け下りていった。
 螺旋《らせん》階段の途中に至って、気を持ち直した衛兵はサイファに語りかけてきた。
「失礼いたしました、陛下。しかし、化け物が都市に攻撃を掛けてくるなど前代未聞。これもやはりニーヴルの仕業――」
「言うな! とにかく今は、塔を出ることだけ考えろ!」
 サイファが言葉を遮り、二人は階段を駆け下りていった。
「サイファ姉ちゃん? どうしたのそんなに慌てて?」
 階下で待っていたジルは、息を切らせて降りてきたサイファを見るも、相変わらずのほほんとした口調で言った。
「ジル早く! 行くよ!」
 そんなサイファの言葉に被さるように
 どうん!! と音が響いた。
「なんだ、なんだってんだよぅ?」
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥