フェル・アルム刻記
七.
一行はほどなく、ルシェン街道に辿り着いた。そして黒い空とは反対の方向、サラムレへ向けて再び歩みだした。
(でも……)
『奇異に映ることはない』と〈帳〉は言った。ルードは真横にぴたりと馬を付けるライカを見た。
「うん、何?」
(やっぱり、銀色だよなぁ)
ルードは、風になびくライカの髪を見た。〈帳〉はまじないがけをしたというが、ライカの髪はルードから見ても銀のままだ。
「どうしたのよ? 変な顔しちゃって」
怪訝そうにライカが言う。
「いや、あのさ……」
どうも言い出しにくいルードは、後ろの〈帳〉をちらと見た。〈帳〉も遠目から見て、やはり何ら変わるところがない。
「〈帳〉さんの姿だけどさ。ライカから見て、どう?」
ルードは小声でライカに訊いてみる。
「どうって……普段どおりよね。あ!」
「俺にもいつもと同じに見えるんだよ。……あと、ライカの髪の色も、変わってないんだけど」
「じゃあ、まじないがけがうまくいってないってこと?」
ルードはうなずく。
「それ、まずいわよ。このままだとばれちゃうんじゃないの?」
「そうだよなあ……ライカ、ちょっと言ってやったら? 術がかかってないんじゃないかって」
「そんなぁ……そんなこと〈帳〉さんに言えると思う? 〈帳〉さんだって、術がかかってると思ってるわけでしょ? 私が言ったら気落ちさせちゃうわ、多分。……ね、ルードが言ってきてよ」
「いや、俺が言うよりライカが言ったほうがいいと思うぜ」
館の生活で〈帳〉は基本的に二人の馴れ合いについてはハーンと違って頓着しなかったが、聞こえてくる言葉の端々に自分の名前が出てくるのが気にかかり、声をかけた。
「どうしたというのだ。何かあったのか?」
そう言って馬を歩み寄らせる。
「あ、いや……」
ルードはライカの顔を見る。その顔は、ルードから話して、と言いたげであった。ルードは仕方なく、〈帳〉に言うことにした。
「その、俺から見て……〈帳〉さんとライカが、普段と変わらないように見えるんですけど……」
それを聞いて、〈帳〉はほくそ笑む。
「君は私達の本当の姿を知っているから、まじないの効き目がないのだ。他人が見れば、私もライカも、フェル・アルムの住人として、平凡ななりをしているように見えるだろう」
〈帳〉はそう言って、前方を見据えた。
「……ちょうどいい。見たまえ、ほら……あの人で確かめてみることにしよう。見えるか?」
ルードが再び前方を見ると、向こう側から人影が近づいてくるのが分かった。
「……確かめるって?」
「挨拶でもしてみるのがいいだろう」と〈帳〉。
「ルード、まかせたわよ。私はここの言葉、分かんないから」
ライカはそう言って、ルードの後ろについた。
そうこうしているうちにルード達は、向かってくる人の輪郭までつかめる位置まで近づいた。
女性がひとり。年の頃は二十五くらいだろうか。一見華奢にも見えるが、長い道のりを徒歩で越そうとするあたり、意外に旅慣れているのかもしれない。
彼女のほうもちらりとルードに一瞥をくれる。彼女はそっと手を挙げ、挨拶した。
[こんにちは。歩きだと大変じゃないですか?]
ルードはフェル・アルムの言葉で声をかけた。
[こんにちは。そうでもないわ、歩くの、慣れてるから]
女性はさばさばした口調で答えると、ルード達のそばに寄ってきた。
[そっちのほうこそ大変ね? 女の子連れ? クロンからは結構遠いでしょうに。まさか駆け落ち、とか?]
彼女は冗談だと言わんばかりに笑いながら、どこかで聞いたような言葉を言った。
[ははっ、恋の逃避行? そういうのだといいんですけどね]
ルードにしては珍しく、さらりとかわした。
[サラムレまで、どれくらいあるのかな……まだ長いんでしょうか?]
[あと一日もあれば着くわよ。長旅お疲れさま。あら、そちらは芸人さん?]
[どうも]
芸人と呼ばれた〈帳〉は会釈した。臙脂のローブを着ている彼がそう見られても不思議ではない。
[サラムレの様子はどんな感じだろうか? しばらくあちらには行ってないんでね]
[そうね……]彼女は顔を曇らせ、あご先に指を置く。
[気を付けなさい。サラムレ……というより、南部中枢から色々変な話が入ってきてるから。もし南方に行こうというのなら、考えなおしたほうがいいわよ]
[変な話……? たとえばどういう?]
ルードが訊く。
[それはあたしが言うより、自分の耳で聞いたほうがいいわね。とにかく尋常じゃない事態になってるのは間違いないわ。……見なさい、あの黒い空。この世界中で異変が起きようとしているのよ]
彼女は顔をしかめて北方を見据えた。そして一言。
[ニーヴル……と言われている連中、聞いたことがない?]
その声色は心なしか、今までと違った冷たい響きがあった。
[ニーヴルってあのニーヴルですか?]
眉をひそめてルードは訊いた。
[そう。十三年前に忌まわしい事件を起こした、あのニーヴルよ。彼らが再び現れて、この異変を生み出してるの。奴らは北のほうに集まってるって聞いたけど……何か知らない?]
[知らないな……すまないが、どこから聞いたんだ、その物騒な話は?]
〈帳〉が言う。
[サラムレじゃあ、街中の話題よ! 中枢のほうでもそんな話で持ちきりだと聞くわ。……まあ、あたしは行くわ。にっくきニーヴルめ、どこに隠れてるのかしらね!]
彼女はそう言って再び歩き出した。
[お気を付けて。また会えるといいわね!]
彼女は手を振って、北へと歩き出した。ルード達も手を振って彼女と別れた。
「ふぅー……」
ルードが息をつく。
「ルード、あの人なんて言ってたの?」
早速ライカが訊いてきたので、ルードは会話の内容を話した。
「よかったねルード、ちゃんとまじないが、かかってるじゃない! ……でも南の噂とか、ニーヴルとか、気になることもいっぱいあったわよね……」
「しっ……」
声を出さぬようにと〈帳〉が制した。
「今、アズニール語をしゃべるべきではない。……あの女……間違いなく疾風だからな」
「うそっ!?」
ライカは驚きの声を上げ、はっとして振り返った。疾風と言われた女性は、こちらを振り向かずに歩いているので、ライカは安堵した。
「……そうなんですか?」
〈帳〉はうなずいた。
「サラムレからクロンの宿りまでの長い道のり、訓練もしない普通の人間が、あんな少ない荷物で過ごせるはずがない。あとは、雰囲気だな。ニーヴルに対する敵愾心《てきがいしん》の強さが伝わってきた。……ルードは何も感じなかったか?」
「あ……」
会話に精一杯で何も気付かなかった。ルードは唇をかんだ。ハーンが自分の立場だったらそうはならなかっただろう。そう考えると、自分の至らなさに腹が立った。
「まあ、そう自分を責めるでない。私とて、話してみるまでは疾風だとは分からなかったのだ。安易に確かめようとした私にも責がある、というもの」
「〈帳〉さん」
とライカ。
「あの人、ニーヴルが異変を生み出しているって言ってたのでしょう? それって本当なんでしょうか」
「この世界の異変には、ニーヴルなどよりもっと大きな“力”が働いている。そう聞かせなかったかな?」