フェル・アルム刻記
六.
「魔導を行使する前に、一つ言っておくが……」
〈帳〉が言った。
「何が起きても、決して悲鳴や、驚きの声を上げてはならないぞ? 魔導の発動に影響を及ぼすやもしれぬからな」
二人はとりあえずこくりとうなずいた。何が起きるのか聞き出そうとしたのだが、目を閉じて両の手を高く掲げる〈帳〉を見て、言おうとした言葉を飲み込まざるを得なくなった。〈帳〉が意識を極限まで集中させているのが分かる。
《ウォン!!》
そう発音されたことばをあたりに凛と響かせて〈帳〉は両の腕を素早く真横に広げる。すると、〈帳〉の両の手から深緑の色を持つ、波のようなものが周囲に広がった。あたかも水面に落ちた石が、波紋を広げるかのように。深緑の波は、二十ラクほどの大きさのところで広がりを止め、上下に少し揺らめきながら留まっている。
〈帳〉はかっと目を見開き、次のことばを発した。
《マルナーミノワス・デ・ダナッサ・フォトーウェ!》
瞬時に深緑は薄い壁となって、まるで天球儀のように三人を包み込んだ。その変化の様子に呆気にとられたルードは、せめて驚きの声は上げまいと、手を口に当てた。
〈帳〉は複雑な抑揚をもって呪文を唱えていく。すると周囲の岩、土、草木からほんの一瞬ではあるが何かしらの光が煌めく。そのたびに〈帳〉は詠唱を中断し、目を閉じる。おもむろに両腕を天に掲げ、楽師のように細かく複雑に指を動かす。すると先ほど、土や草から煌めいていた光の点は、明確な色を伴って半球に張り付き、〈帳〉の指の動きに合わせて半球上に線を描く。と、それらの線は、やがて二重三重に絡み合い、奇妙な模様をいくつも作りあげていく。
絶えず色彩が移り変わる、繊細かつ不思議な模様。
それこそ、魔導の威力を強大なものとする“呪紋”である。
魔導の行使は絶え間なく続き、どれほどの時が経ったのか、ルードには分からなくなっていた。ライカもまた、馬の背をなでながら目をぱちくりさせ、手を口に当てて周囲をきょろきょろと見回すのみ。二人がただ驚くなかで、〈帳〉ひとりが奇妙な詠唱を続けていた。
ぴたりと。
詠唱の声がやみ、二人は〈帳〉の動作を見守る。〈帳〉は二人を交互に見やり――。
最後の言葉を発した。
《マルナ・ハ・フォウルノーク、スカーム・デ・ダナッソ!》
瞬間。
半球上の全ての呪紋は、それぞれの持つ色を膨らませて霧散した。大きな半球は一点に凝縮し、それまで三人の周囲にあった全ての色彩、情景が消え失せた。そして凝縮された球は、閃光のように光り輝く。、ルードはまばゆさのあまり目を閉じた。
ルードが気付くと、彼ら三人とその馬達は、七色に光る球の中にいた。足下にはごつごつした地面の感触はなく、ふわりとした浮遊感に包まれていた。
(この感じ……似たようなのを感じたことがあるような……)
ルードは正面にライカの姿を認めた。ライカもルードを認め、戸惑っているのか苦笑を浮かべた。
(そうだ。ライカと初めて出会った時、こんな感じだったっけ。もっとも、あの時のほうがとんでもなかったんだけどな……。少しの間だけど、世界を乗り越えちゃったんだからな)
〈帳〉は、苦しそうに息をしながら膝を抱えてうずくまっていた。それを見たライカが近づこうとしたが、〈帳〉は右手を挙げてそれを制した。やがて〈帳〉は顔を上げて言った。
「私は……大丈夫だ。久々に大きな魔力を解放したので少々疲れただけだ。心配せずともいい」
そう言った〈帳〉の声は、やはり弱々しいものだった。
「もうすぐ、この球体はなくなる。その時は遙けき野を越えているだろう……」
〈帳〉は再び顔を伏せた。
ルードが周囲を見ると、なるほど確かに球体をかたちづくる色が徐々に淡くなっている。色が失せたその時、ルードは再び、自然の持つにおいを強く感じはじめた。
ルードがふと気が付くと、あたりは一面の荒野ではなく緑の絨毯が覆う野原だった。
「どうにか成し得たようだな、遙けき野越えを……」
近くに立っていた〈帳〉が言った。しかし、見るからに朦朧としており、いつ倒れてもおかしくないようだ。
「〈帳〉さん!」
ルードが駆け寄って、〈帳〉の身体を支えた。〈帳〉は安心したのか、そのままゆっくりと腰を下ろした。
「〈帳〉さん?」
と、ライカも駆け寄ってくる。
「大丈夫だ」
大きく息をついて〈帳〉は答える。
「転移の魔導は、本来の空間をねじ曲げ、人を瞬時に移動させるもの。魔導の中でも高度な部類に入るものだ。空間の理《ことわり》は、我ら人間には理解しがたいものゆえ、あやまたずに魔法を発動するには、相当の知識と魔力が必要なのだ」
ライカが持ってきた水筒の水を飲み干すと、〈帳〉は礼を言ってゆっくりと立ち上がった。
「ともかく、皆が疲れず、かつ迅速にここまで来るのには最良の手段であった。あとは軽くまじないがけをして、私達の身なりを惑わすようにしてから……出発しよう」
〈帳〉はそう言って、二言三言唱えると、ライカの頭に手を触れ、ついで自分の頭にも手を触れた。“惑わしの術”を唱えたのだ。
「これでいい。さあ、出発しよう!」
一行は馬を歩ませ始めた。