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フェル・アルム刻記

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五.

 〈帳〉は厨房で、畑の野菜の仕込みにかかっていた。が、あわただしく館に入ってきたルードとライカの様子がいつもと違うことを察し、朝食の支度を中断して、少年達の語ることに聞き入った。
 マルディリーン、彼女の提言、太古の“混沌”の侵食――。二人の口からそれらを聞くにつけ、〈帳〉ですら驚きを隠せなくなっていた。
「なんと、マルディリーンとは! 久しくその名を聞いていなかったな」
「知ってるんですか?」と、ルード。
「知っているとも。私がまだ深緑の髪を持つエシアルルだった頃、ディッセの野でたびたびお目にかかったことがあるからな」
 白髪のエシアルル、〈帳〉は言った。

 エシアルルは森の護り人。彼らはアリューザ・ガルドで生を受けておよそ二百年を経た後に、肉体と魂を分離させる。魂は次元の狭間にある“ディッセの野”に赴き、そこで彼らは百年の時を過ごすのだ。その後再びアリューザ・ガルドに帰還し、肉体を目覚めさせる。――長い人生のなかでエシアルルは幾度となくこの周期を繰り返す。

「マルディリーンがこのフェル・アルムに現れた、というだけで十分驚きに値するのだが、かの方がそのように言われたのであれば……。ライカ、とりあえずあり合わせのもので食事を作っておいてほしい。そのあと、自分の支度に取りかかりなさい。我らは出立する」
「は、はい!」
「ルードは……身の支度を整えたあと、馬を玄関口に連れてくるのだ」
「そうすると、今日から遙けき野越えなんですね?」
 ルードは、あの厳しい道のりの記憶がよみがえった。また一週間近く、あの苦しみを味わわねばならない。それは全く乗り気がしないことである、が、荒野を越えない限り、スティンには行き着くことが出来ない。
 ルードの言葉を聞き、〈帳〉は顎に手を当て考えた。
「……いや、急がねばなるまい。ここはルシェン街道まで、ひといきに移動しよう」
 その言葉を聞き、ルードとライカはぽかん、と口を開ける。どうやったら行けるというのだろうか?
「つまるところ魔導を用いよう、というのだ。さすれば一刻もかからずに遙けき野を越せるだろう」
「へえ……」
 ルードは驚嘆の声を漏らす。
「でも〈帳〉さん」とライカ。「それだったら、一度に高原まで行けないんですか?」
「残念ながら、それは叶わない。枯渇した私の魔力では、遙けき野越えで精一杯だろう。……とにかく今はなるべく急ぐことだ。魔導の行使により私は疲労するだろうが、三人ともに疲れ果てるよりはましだろう。ただ、もし何か起きたとしても、しばらくの間は微弱な術しか使えん。その時はルードの剣に頼ることになるな」
「じゃ、とりあえずわたし、食事の準備をしますから……」
 言うなりライカは機敏に、洗い場に向かった。
「ルードも、はやく支度なさーい?」
「……分かったよ」
 ライカに急かされたルードは急ぎ足で食堂をあとにする。

 〈帳〉もまた、勝手口から館の外へと出ていった。彼が育てた畑の野菜や、牧場の動物達――。『〈帳〉の館』という名の小さな世界の住人達に、おそらく別れを告げるために。それが永遠のものではなく、しばしの別れに過ぎないようにと〈帳〉は世話をし、祈るのだろう。

 三人がそれぞれの支度をし終わり、玄関に待たせていた馬に乗る頃、太陽はすっかり昇って、初夏の日差しをさんさんと注いでいた。しかし――。
(本当にそのかっこうで旅に出るのか?)
 二人の旅装束を見た時のルードの素直な感想である。
 ライカはまだいい。わずかに紫がかる銀髪は、確かにこの世界にはあり得ない髪の色だが、それ以外はいたって普通の少女なのだから。問題は――。
「あのう、〈帳〉さん、こんなこと言うのは何なんですけど」
 ルードは少々恐縮しながら〈帳〉に話しかけた。
「ええと、その格好……かなり目立ちませんか?」
 ルードの言うとおり、雪のように白い髪を惜しげもなくさらした〈帳〉のなりは目立ち過ぎる。エシアルル特有の端正なかんばせを持ちながら、両の目尻から頬にかけては臙脂に彩られた刺青を入れている。そして袖周りに刺繍の施された、ゆったりとした臙脂のローブ。
「問題はなかろう?」
 ことも無げに言う〈帳〉本人は、気にする様子すらない。

「北には行けぬ以上、サラムレを経てスティンに向かうほか無い。サラムレでは、この程度のなりをしていても別段問題ないだろう」
 商人達が多く集う水の街サラムレには、目立つ衣装をまとった芸人が多くいると、ルードも聞いていたが。
「でも! サラムレに着く前、疾風達に出くわすかもしれないしさ……」
「それもあるな……。“惑わしの術”を唱えて、私達の本当の姿を見えにくくしておくか。そうすれば、よほど疑いの眼差しで見られない限り、打破されることはないだろう。デルネアと、彼の麾下《きか》をのぞいて、であるが」
 〈帳〉は、ルードの肩をぽん、と軽くたたく。
「私はかつて、デルネアに会うためにフェル・アルム南端のトゥールマキオの森に赴いたことがある。十三年前、ハーンを救い出した直後の混乱期にな。その時も、このような身なりについて人に問いただされることなくデルネアのところに行けたのだ。おそらくは大丈夫だろう。……それに、私達の姿かっこうをどうこう思う余裕など、人々にはなくなっているかもしれん」
 ルードも、少し心配ながらも、それ以上の言及はやめた。
「さあ、結界を解いて、館の外に出よう。集まりたまえ」

 〈帳〉が言うと、ルードとライカは馬を従えてひとところに集まった。新たな旅の一行となる彼らは、互いの目を見合わせる。決意のほどを確かめるように。
 ルードとライカは目を閉じた。聞こえてくるのは、いつもと違う〈帳〉の声。呪文の詠唱は低い声で、うねるように続いている。徐々に、徐々に、足下の感覚が変わってくるのが分かる。

「……目を開けていいぞ」
 〈帳〉の言葉を聞き、二人は目を開けた。広がるのは二週間ぶりに見る一面の荒野だ。しかし――。
「あ! 見てよ、あれ! ルード!」
 叫ぶライカが指さす方向をルードは見つめる。
「う……」
 声にならない。
 北方。天上の青空とは明らかに異質な黒い空が覆っている。二つの空の境界は、まるで波打ち際に押し寄せる波のようにゆっくりと揺らいでいた。
 自ら意志を持っているとも思わせる黒い“混沌”――。
「見るに耐えんな……。あれこそ、空間の歪みが呼び寄せた“混沌”だというのか……」
 さすがの〈帳〉も眉をひそませる
「〈帳〉さんの館だと、空はあんなふうには見えなかったのに……。青い空が悲鳴をあげてるみたいで、とっても恐い……」
 両の腕を押さえたライカは、今にも震えそうだった。
「私の館か……。いつの時代にあってもあの場所は、隔絶された安らぎの場所であるからな……」
 そう言って〈帳〉は結界の向こう、館があったであろう場所を振り返った。
「結界のなかの小さな世界、か。結局のところ六百年間、デルネアと同じことをしていたに過ぎないのか? 私は……」
 〈帳〉の漏らした嘆きは、大きな哀しみに満ちているように、ルードには聞こえた。



作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥