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フェル・アルム刻記

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三.

 ライカは、朝食の用意をするために、〈帳〉の館を出て、いつもの小さな牧場へ向かう途中だった。館から牧場へつづく小径を、足取り軽く歩いていく。
 彼女の耳に、風に乗って、ある音が聞こえてきた。唸りをあげて風を切る音。高ぶってはいるが、規則的な息遣い――。“風”の力に詳しいアイバーフィンでなければ聞き取ることは難しいだろうその小さな音は、牧場へ向かう小径から少し逸れた、林のほうから聞こえてくるようだった。
 ライカは躊躇せずに、足を林のほうへ向けた。その息遣いを彼女はよく知っていたから。
 ルード・テルタージ――自分を守ってくれている少年。

* * *

 自分はこの剣を何百回振ったのだろうか? 息が徐々に荒ぶってきているのに相反するように、気持ちは落ち着いてきている。ルードは素振りを繰り返しながら、そんなことを考えていた。手にしている剣は、ルードに活力を与えてくれる。
 ルードがこの圧倒的な“力”を持つ聖剣――ガザ・ルイアートを手にするのはほぼ二ヶ月ぶりだった。瀕死の状態で剣を握った、“疾風”との戦い以来だ。仮に剣に意志があったとすれば、剣はルードに対し従順になったといえる。ルードがかつて手にした時、剣は強烈な“力”をルードの体内に送り込んできた。それは、ルードが所持者たるに相応しいか、試さんとするようだった。
 ルードが力に目覚めたのは、疾風との戦闘後だった。ルードは怪我をすることがなくなった。いや、正確にはどんな深手を負ってもすぐ傷が癒えるようになったのだ。そして、今まで感じ取れなかった大地の息吹というものを、肌で感じ取れるようになった。――ライカが風の力に敏感なように。
『ルードは、セルアンディルの力を手にしたのだよ』
 かつて〈帳〉はそう言った。
 セルアンディルとは、遙か昔のアリューザ・ガルドにおいて土の力を司っていた民だ。ルードは伝説の剣を媒体にして、古《いにしえ》の力を手に入れたのだ。
 ライカの種族、アイバーフィンは風を司る。そして風の世界に赴き理《ことわり》を悟った者は翼を得、鳥のごとくに空を我がものに出来る。土の司セルアンディルは、大地の霊力を自らの力とし、外傷・病気など受け付けない、癒しの力を持つのだ。

 今や剣は自分と一心同体となった。まるで何十年も使いこなしていたかのように、ガザ・ルイアートは意のままに動き、銀色の刀身が朝日を受けて幾重もの光を放つ。
 ざっ!
 ルードは足を踏ん張って、最後のひと振りを振り下ろした。
「はあっ!!」
 そのままルードはぴたりと動きを止める。静かな林の中、自らの息の音と心臓の鼓動がやけに大きく聞こえている。少し長くなった前髪が汗で張り付く。

 ぱちぱちぱち……
 背後でそんな拍手が聞こえたので、ルードは剣をしまって振り向いた。
「……え……ライカ……か……。いつから……」
 いつからいたのさ? そう言おうとして、息を整えようと必死のルードに、ライカは満面の笑みで駆け寄った。
「すごい! すごいよルード! ハーンだって、今のルードにはかなわないかもしれないわよ!」
「そんなこと……ない……俺はだいぶ……剣……の力に……たよってるから……ハーンは……こんな程度じゃ……息……あがらない……」
「まあまあ、落ち着きなさいな。ほら、そこに腰掛けて?」
 ライカは倒木に座るようにルードを促すと、自分もルードの横にちょこんと座った。
「静かね……」
 ライカがひとりごちる。物音一つしない林の中を、一陣の風が吹く。
「ふぅー……」ややあって、ルードが深呼吸をする。
「落ち着いた?」
 ライカがルードの顔をのぞき込みそう言うと、こくり、ルードはうなずいた。
「〈帳〉さんは?」
「ええと、そうね、裏の畑でなんかやってたようね」
「そういや、朝飯の準備、途中なんじゃないのか?」
「いいのよ。……ルード、一生懸命だったから、見ててあげたくって、つい、ね」
 ライカはそう言って小首を傾げて見せた。その可憐な仕草に動揺したルードは、ぽりぽりと鼻の頭をかき、照れたように笑って見せた。
「でも、どうしてまた今日はその剣なの? 今までだって、朝の練習は、なまくら剣だったでしょ?」
 剣先を丸くした模擬戦用の剣のことをライカは言っているのだろう。
「ああ……ぼちぼち、こいつに馴れておかなきゃなんないかな、と思って」
 それを聞いたライカの眼差しが、凛としたものになった。翡翠色の瞳が、きらと光る。
「それって……」
「ここから出る時が来たってことだよ」

 ルードはライカに語った。数日前から夜を覆っている闇。光り輝く聖剣。ハーンのイメージ。そして――。
「で、〈帳〉さんの出した光が戻ってきた。ハーンはどうやら今、クロンの宿りにいるらしいんだけど……。〈帳〉さんからの問いかけにハーンが反応しないらしいんだ。そしたら〈帳〉さん、妙に険しい顔になってさ。どうしたのかって訊いたら、〈帳〉さんもよく分からないって言うんだ」
「それから?」
 ライカは先をうながす。
「今のところはそこまでだ。〈帳〉さんも、出発の準備はしておけって言ってたけど、あの顔つきだと、どうなるかは分かんないな。でも俺はさ、ハーンがどうなっちゃったのか分かんないんだったら、ハーンを追っかけなきゃ、と思うんだ。大体の場所は、〈帳〉さんがつかめるんだから」
「〈帳〉さんが、行くのに反対だって言ったらどうする? 時期を待てって感じで」
「かけ合ってみるつもりさ。ライカはどう思ってるんだ?」
 ライカはしばらく思案するふうを見せたあと、ルードの肩に頭を預けた。
「わたしもハーンのことが心配。ルードの話を聞いてると、やっぱりここから出たほうがいいかもしれないわね?」
「……多分、危険なことになると思うけど、……それでも……付いてきてくれるのか?」
 ライカは頭を預けたまま、うなずいた。
「まさか、わたしをここに置いていくつもりだった?」
「それもちょっとは考えたかな?」
 ルードの軽口に対してライカは顔を上げて、わざとらしくふくれっ面をしてみせる。
「まあ、でも……、約束してるからな。ライカを、もといた村に戻すって……。だから……」
「だから?」
 横を見ると、ライカが何やら言いたげな眼差しでルードを見ていた。ルードは顔を赤らめて、言おうとしていた言葉を引っ込めようとした。
「ルードはどうしたいの?」
 ライカは納得せずに訊いてきた。もはや言うべき言葉は一つしかない、というのに。
「俺に、付いてきてほしい」
 その一言にライカは破顔した。
「それでこそルードよね! わたしの思ってるとおりの、ね!」
 心地よい風が二人に吹き、林を駆け抜けていく。二人はしばらく、そのままの姿勢で風と、互いへの想いを感じていた。

 ややあってルードは立ち上がる。剣をゆっくりと右に左に振って、その刀身の光るさまを見ていた。ライカのほうを見ないのは照れ隠しのためか。
「なあ、ライカ」
「なあに?」と、どこか楽しそうなライカの声。
「とにかく、俺は今日、〈帳〉さんにかけ合ってみようと思ってる。あの人だって分かってくれるさ。って、……何だ?」
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥