フェル・アルム刻記
二.
夜が明けてまもなく。ルードは〈帳〉の部屋を訪れた。
「来たのか……休んでいても構わなかったのだが?」
読んでいた分厚い本を机に置き、〈帳〉が訊いてきた。まるで物語に出てくるような、と形容すべきか。普段とは違う臙脂《えんじ》のローブを纏《まと》った〈帳〉は、まさに魔法使いそのものだった。
「ライカも一緒なのか?」
「まだ寝てるでしょうね」
見慣れぬ臙脂の装束をじろじろ見ながらルードが言った。
「あいつ、寝る時は本当にぐっすり寝ちゃうんですよ。……あ、起こしてきたほうが良かったんですか?」
「いや、それには及ぶまい」〈帳〉は言った。
「では、ハーンに呼びかけてみるとするか」
「魔導ってやつを使うんですか?」
ルードの問いに〈帳〉はかぶりを振った。
「術で十分であろう」
「そうですか……」
ルードは内心残念であった。かつては偉大な魔導師として名を馳せていた〈帳〉。ハーンの行使した術も驚きに値するものだったが、それを凌ぐとされる魔導とはいかなるものなのか、見てみたかったのだ。
「そう落胆するな。術と違って、魔導とは気安く用いるべき代物ではない。魔導の行使は、世界の構成そのものに干渉することになる。ゆえに魔導を用いる者は、干渉した際、どのような結果をもたらしうるのか見きわめねばならん。何より、己の意志を繋ぎ止め、全てをあやまたずに行わなければならないのだ……それを軽んじた結果、魔導の暴走が起きたのだ。
「……話がそれたな。いずれにせよ、事態が事態なのだから、君も近いうちに魔導の片鱗を見ることになろう。アリューザ・ガルドでは封じられた、魔導の力をな」
〈帳〉は目を閉じると、顔を上げて異質な抑揚を持つ言葉を紡ぎだした。それはほんの数節からなる言葉で、二回、三回同じ文句を唱えた。やがて〈帳〉の発する声はか細くなり、口を閉じた。〈帳〉はおもむろに左腕を天井に掲げる。すると、身体や四肢の中から浮き上がってきた幾筋かの揺らめく光が、様々な色合いに変化しつつ彼の指先へと立ち上っていき、一つの点となって凝縮した。〈帳〉が指を鳴らすと、それは窓を突き抜け、一条の矢のごとく飛び去っていった。
「今放った光は、一刻もしないうちに私のところに戻ってくる。その時、ハーンの所在が明らかになろう」
大きく息を吐いて、目を開けた〈帳〉は言った。
「……休んだほうがいいのではないか? あとは私にまかせておけばよいのだから」
「……いえ、ここで待ってますよ。ハーンのこと、やっぱり気がかりですからね」
二人は、徐々に明けてくる東の空を漫然と見ながら、時が刻まれるのをただ待つのであった。