フェル・アルム刻記
ふとルードは、赤い陽光を横から浴びているスティンの山々を見た。まだ残雪があるものの、徐々に山は本来あった姿へ戻りつつある。あと半月もすれば山への立ち入りが許可される。山は狩りの場であり、少年達の小さな冒険の場でもあるのだ。
ルードは、自分の身にいずれ起きる事態を知らない。
ルード・テルタージ。高原の麓ラスカソ村に住む十七歳の少年である。北方人――ライキフびとの典型として肌の色は白いほうで、青みがかった黒い髪を持っている。
彼は子供の頃、クレン・ウールン河流域の小さな村に住んでおり、両親と三人でつつましく暮らしていた。
しかし、十三年前のフェル・アルムとニーヴルとの戦いに村は巻き込まれ、戦場と化した。父親のヤールは村の男達とともに村を守るため槍を持って家を後にし、そして再びルード達のもとに帰ることはなかった。
数週間が過ぎ、悲しみのなか母親のリレエは決断をする。スティン高原で羊飼いをしている彼女の弟のもとに身を寄せよう、と。実際、村は酷い有り様で、もはやそこに再び居を構えようなどと考えている者は無いに等しかった。それほどまでに彼らの心は打ちのめされたのだ。
数百年のながきにわたり平穏であったフェル・アルム。それが破られた衝撃と、自らが戦争の被害者となってしまったという酷な事実を癒すには時間に頼るしかない。いかに住み慣れた土地とはいえ、目の当たりにする現実に立ち向かえるほど、彼らは強くなかった。
リレエの弟、ディドル・ナッシュはヤールの死を悼み、そして快く彼ら母子を迎え入れてくれた。悲しむべきことにリレエはそれから半年後、風邪をこじらせて逝去するが、ナッシュ一家は残されたルードをそれまで以上に可愛がるようになる――まるで自分達の本当の息子のように。
ディドルには妻のニノと娘のミューティースがいる。いついかなる時も彼らはルードを支えてくれた。今、こうして自分がいるのも彼らナッシュの人々が自分の家族となってくれたからだ、とルードは素直に思っている。
ルードが他人に見えないものを感じるようになったのは、八歳くらいからであった。自分の立っている地面の遙か下で何かがうごめくような感覚を覚えたり、風もなく周囲に何もないはずなのに音が聞こえたり――そんなことが年に数回あった。だが、それを信じてくれる人はいなかった。みな一笑に付して『そんなことはない』と言うばかり。真面目に聞いてくれるのは従姉のミューティースやケルンくらいだった。
とは言え、多くの人は否定したため、ルードもその不思議な体験を人に話さなくなった。そして彼しか感じなかったものも、何年か前からぷっつりと途絶えた。
[なんだぁ? ケルンのやつ、こんなとこで寝てんのかよ]
聞き覚えのある野太い声がしたのでルードはふと我に返り、右に首を向けた。
コプス村のシャンピオだ。普段スティンの村々とサラムレの間で旅商をしている彼は、ルードとはひとまわりほど年が離れているものの、よき友人である。彼はまだ所帯を持つ気ではないらしい。奔放な彼のことだ、女性に対して自由でいたいのだろう。彼自身もそのようなことをほのめかしていた。
シャンピオの隣には、彼と同じくらいの年齢の若者が、両手でタールを抱えて立っていた。乳白色をしたゆったりめの上衣とそれに溶け込むような肌。ぴっちりとした、それでいて動きやすさを第一に考えているような白いズボン。癖がありながらも奇麗な黄金の髪は多少長めであり、彼の服装から醸し出される雰囲気に調和していた。
[シャンピオ! 帰ってきてたんだ。……そうだ、ケルンを一緒に運んでくれないか? 酒がまわってこの有り様だよ]
見たことのない青年を気にしながらも、ルードは久しぶりに会う友人に声をかけた。
[おお、ここから突き落としゃ、びっくりしてこいつの酔いも覚めるだろうよ]
シャンピオも浮かれている。仕事から解放され、久しぶりに故郷に帰れたのが嬉しいのだろう。
[あのなぁ]
[はっはっは、冗談だって。まあ、こいつも相当飲んでたからなあ。……俺達もこいつに飲ませ過ぎたかな? ……それじゃあケルンの家まで運ぶとするか]
結局、シャンピオ一人でケルンをおぶっていくことになった。そのほうが運びやすい、とシャンピオが言ったからだ。
ケルンもまた戦災孤児で、昔はスティン高原から東南にあたるセル周辺に住んでいたが、やはり十三年前、スティンに住む親戚を頼ることになったのだ。
祭りの輪から遠ざかっていく。周囲はところどころに岩のあるような草原だ。そこから少し丘を下ったところに一軒の家がある。スティン杉で出来たその家が、ケルンの育った家だ。ルードの家もそこからほど遠くないところにある。ケルンの家に連れて行く途中、シャンピオはルードに話しかけた。
[……こいつも重くなったなぁ、ちょっと前まではちびだったのになあ。お前も、ケルンも]
[はははっ……なんかさ、シャンピオって、会うたびにそんなこと言ってるよな]
シャンピオの右隣にいるルードは笑って答えた。
[そうかあ?]シャンピオが言う。
[俺達、いつまでも子供じゃないんだぜ?]とルード。
[うん。でもなあ、やっぱり昔の時の印象っていうのがあるからなあ。どうも驚いちまうんだよ、こいつがこんなにでかくなりやがって、ってな!]
シャンピオが明るく話してくれるおかげで、先ほどまでいささか気が沈んでいたルードも、彼本来の元気を取り戻した。
[でも、やんちゃぶりは相変わらずなようだな?]
そう言ってシャンピオは笑った。
[やんちゃだって? そんな無茶ないたずらは、ここ最近してないぜ?]
少しすねた口調で、ルードは冗談交じりに反論する。
[……なあ、この半年見かけなかったけど、どこに行ってたんだよ?]ルードはシャンピオに尋ねた。
[この冬はアヴィザノとカラファーの間で交易をしていたな。カラファーの毛皮が今年は特にいい出来でな。さらにカラファー銅も積み込んで……ずいぶんと儲けさせてもらったぜ]
シャンピオが答えた。
[へえ、でもアヴィザノからカラファーまでか。また結構な長旅なんだなあ?]
[そうだな……移動だけで片道一週間はゆうにかかっちまう。セルの山も越えなきゃならんしな。でも、それだけの苦労があるからこそ、たんまり儲けられるってわけよ]
[それをたったひとりでやってたのか?]
[まさか。行商の場合、数人の商人が隊を組んで、さらに護衛を雇っていくのが普通さ。野盗なんぞに襲われでもしたらたまらないからな。……おお、それで今回の俺達を助けてくれたのが――彼さ]
そう言ってシャンピオは、彼の後ろを歩きながらタールの弦をつま弾いている人物を紹介した。
[えっ、あなた……戦士だったんですか?]
ルードは感嘆の声をあげた。彼は細身で、しかもタールを弾いているものだから、吟遊詩人とばかり思っていたのだ。
ルードは戦士というものに対し、あまり良い印象をもっていない。今でも時として自分が剣を握ることを恐れるふしがある。村と父親を失った幼い日の記憶が、未だ奥底に残っているのだ。
[うーん……、やっぱりそうは見えないかな?]