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フェル・アルム刻記

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二. 始まり

 春。
 スティンの山々から溶け出した雪が冬の間枯れていたクレン・ウールン河に流れ込み、その流域を潤して海へと至る。ウェスティンの地に眠る戦士達も、新たな生命を育んでいくその水によって慰められるだろう。

 ――あれから十三年の歳月が流れようとしている。中枢都市アヴィザノの暴動から始まった一連の騒動は、反逆組織“ニーヴル”を生み出すに至った。
 ニーヴルという言葉は『否定』を意味するとされる。十三年前、帝都アヴィザノで暴動が勃発し、ニーヴルは国家に対して反旗を翻した。ニーヴルを鎮圧するために中枢の騎士達が動き、各地の人々もそれに呼応した。ウェスティンの地で両軍の総力を結集した戦いが繰り広げられ、そして決着がついた。
 ニーヴルは滅亡し、フェル・アルムに平和が戻ったのだ。
 だが、『痛手』というものはたやすく癒されるものではない。ウェスティンの決戦で双方あわせて何千、いや何万に至るかもしれない戦士が命を落としている。そして付近に点在していた村や集落も、戦いに巻き込まれて潰されていった。
 大地も、人々も、その記憶をはっきりと刻み込んでいる。

 春。
 それはスティンに住む羊飼い達にとって、一年の始まりを意味する。冬の間、平野部で過ごしていた彼らが、羊達とともにスティン高原へと戻る季節。
 高原へ戻った日、羊飼い達は宴を催すのが例年の習わしだ。これからの生活をお互いに励ますため、そして高原から遥か、ウェスティンの地を見て悲しみを分かち、死者を慰めるため。
 この春は特に、世界各地で盛大に祭りが行われる。フェル・アルムが建国千年を迎えるからだ。

 今から千年も昔、大地は混乱のきわみにあった。世界に秩序をもたらし、統治した人物こそユクツェルノイレである。
 この世界――ただ一つの王国――は“フェル・アルム”、上古の言葉で言うところの〈永遠の千年〉と名づけられ、ユクツェルノイレは神君として世を統べた。
 それから千年のながきを経た今も、帝都アヴィザノ北方にあるユクツェルノイレ湖の偉帝廟《いていびょう》から、神君はフェル・アルムを見守っていると言われている。

 建国千年を祝うこととなった羊飼い達の宴は、今までになく大規模である。彼らは近隣の村人や手のあいている警備兵にも声をかけて回った。今日は祭りのはじまり。日が暮れるにしたがい、宴はより盛大になっていった。火を囲んで歓談する大人達。弦楽器《タール》やフィドル、笛で音を奏でる者、それにあわせて踊りに、歌に興じる男と女。
 その集まりから離れたところでは――切り立った場所から遠くを流れるクレン・ウールン河の流れを見下ろす少年がいた。そして、彼にふらふらと近づいていく少年。

[おーい、ルード!]
 浅黒い肌をした少年が、ひざを抱えて座っている少年のところへ近づき話しかける。
[……んん?]
 ルードは彼のほうを向かないまま、気のない返事をする。近づいてきた友人――ケルンも、ルードの呆けた返事を気にすることはない。座り込んでいるルードと、立ったままのケルン。彼らは姿勢を崩さないまま、輝く河の流れを、そして遙か彼方の赤い空を見やるのだった。
 光を吸い込むルードの濃紺と、跳ね返すようなケルンの金髪。各々の髪は夕日を受け一層際立つ。
[ルードよお、お前もさぁ、酒飲んだかあ?]
 陽気な口調でケルンは話しかけてくる。
[うん、ちょっとは、なぁ……]
 髪留めでまとめられた後ろ髪を指で愛撫しながら、ちらとルードは親友の顔を見る。
[おいケルン、お前……相当飲んでないか?]
 ケルンの顔は夕日に負けず、真っ赤だ。
[はっ、酒ってのはいいもんだなぁ! 景色だっていつもと違ってみえる。うーん、夕日ってのがこんなに奇麗なもんだったなんて初めて知ったぜ!]
[まあなぁ……]
 ケルンのほうは見ず、膝を抱えたままの姿勢で、ルードは曖昧《あいまい》な返事をした。
[いやあ、なんでこんなに赤いんだろうなぁ?]
[さあ、なぜって訊かれても……なぁ]
 さっきからやけに饒舌なケルンに対して、ルードは冷静そのものだった。物思いに耽っていたところを邪魔された、というせいかもしれない。
 そんなこととはつゆ知らず、ケルンはルードの真後ろにどっかりと座り込み、話しはじめる。
[つれないなぁ。夕日が赤いって本当か? 昔からそうだったのか? 赤じゃなくて、ほかの色でもいいじゃないか。……何が言いたいかっていうとだ、例えばこの空が、別の色に突然変わっても不思議じゃないってことだよ]
[はあ?]
 ケルンの謎めいた言葉にルードはついていけず、訝しげな表情を浮かべた。
[俺の言ってること、間違ってるか? お前なら……『見えないものが見える』とか言ってたお前なら、こんなことを話しても分かってもらえると思ったのによ]
[そんな昔の言葉を引っぱりだしてくるなよ……]
[でもさ、お前しかいないんだよ。俺の話を分かってくれそうなやつがさぁ……]
 ケルンは大げさに落ち込む仕草をみせる。
[ああもう、分かったから! 話を聞いてやるよ]
 その言葉を聞き、ケルンは目を輝かせた。酒が効いているのだろう、普段にもまして彼の表情は豊かだ。ケルンは嬉々としてしゃべり始めた。
[じゃあ聞いてくれよ! ええと、空の色の話だったよな? そう――神様ってのがいたとしてだ、その人が気まぐれで空の色を変えるかもしれないだろ? だから別に空が突然黄色になっても、俺はそんなもんかって感じでさ、驚かねえと思うぜ]
[うーん……取り止めもない話だなあ。それで、哲学者様は何が言いたいんだ?]
[だからぁ、今日までの常識ってやつが明日も通用するとは誰も分かんないってことよ!]
 酒に酔った勢いに任せ、ケルンの説教はさらに続く。
[フェル・アルムが世界唯一の大地だって? 海の向こうに陸があったり、“果ての大地”をずーっと行ったところに国がある……ってのは、確かに言い伝えにはあるけどよ、誰も信じちゃいねえ。でもある時突然、そんな不思議なもんがひょっこり出てきたりすることだってあると思わねえか? 世間の大人達はなんで今の常識がずーっと続くなんて考えるかね? 俺達は世界の全部を見知ってるわけじゃないってのに。そういうとこでニーヴルの連中の考えも、ちょっとは同感出来るんだよなぁ]
 ぞくり、と背筋が凍る。ケルンの言葉にルードは過敏に反応した。ニーヴルを肯定することは決して許されないのだ。こんなことを大人達に聞かれたら――!
 ルードはケルンのまとまりない説教を止めさせよう、と思って後ろを振り返った。
――当のケルンは膝を抱えるようにして寝ていた。興奮気味にまくしたてて、酒が一気に体にまわったのだろう。
 騒ぐだけ騒いでおいて勝手に寝るなよ。ルードはそんな表情でケルンを見る。
[まったく……]ひとりごちるルード。ケルンの今し方の言葉を、かつての自分自身に照らし合わせながら。
(『見えないものが見える』か。確かに俺は言ったさ。でも、そんなものは見えないんだ。……いつからか、見えないようになってしまったんだ)
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥