フェル・アルム刻記
六.
帝都アヴィザノは次の朝を迎えた。
晴れた空に靄がうっすらとかかるさまは、何とも幻想的だ。宮廷仕えの楽士達が奏でる朝の音楽も、ゆったりとした心地のよいものであった。今日一日がよき日であるよう、人々は偉帝廟《いていびょう》に眠るユクツェルノイレに祈るのだ。
だが、鏡の前のこの女性の顔は、憂鬱そのものだった。
[酷い顔……]
ルイエはろくに寝付けないまま、朝を迎えていた。
昨日の朝方に神託を聞いた後、ルイエは即座、中枢の刺客達を北方に回すようにと命令を下した。これは異例のものであったが、彼女の姿勢は国王らしく毅然としたものであった。
しかし。
(私ごときが、人々の命に関わるような決断を下していいものだろうか?)
その後自分の部屋に戻ってきてから、答えの出ない疑問に頭を悩ませた。自分が発した言動が意味すること、その重圧に耐えかねて、寝屋《ねや》に入った後、ひとり泣き明かした。
物事を進めるためには、何かしらを切り捨てて行かねばならない時がある。それが非情の決断であったとしても。王という、人々を先導する立場であれば、なおさらだ。ただ、それを理屈で理解していても、感情的に割り切れるようになるほど、彼女は大人ではなかった。
ばふっと音を立てて、ルイエはベッドの上に横たわる。しばらくうつ伏せのまま、突っ伏していた彼女だったが、
[……決めた!]
小さく宣言した。
[サイファ様ぁ!?]
[すまぬ、キオル。夕刻には戻る!]
ルイエ、否、サイファは早足で歩きながら後ろ手に髪を縛りつつ、キオルに言った。キオルは信じられない面もちだった。サイファを起こすために彼女の寝室の扉を開けた途端、サイファがあわただしく出ていくのだから。しかもその格好たるや王族の衣装ではなく、市井の少年のような姿なのだ。
[陛下ぁ!!]
呼び止めたところで無駄なことは、キオルにも分かっていた。お忍び姿で表に出ようとしているサイファを止めたことのある者は、宮廷広しといえども存在しなかった。
[陛下ぁ……!!]
廊下には、キオルの情けない声のみがこだましていた。
* * *
昼下がり。噂を聞きつけた近郊の人々で、ロステル園は異様な混み具合となっていた。化け物がぐちゃぐちゃになって死んでいる、と言うのだ。百人ほどの大人が、果樹園の入り口でたむろしている。
[ほらほら、子供の見るもんじゃないよ! 帰んな!]
化け物を一目見ようと繰り出した人々の固まりから、十歳を少し過ぎたばかりの少年がはじき出された。
[ひゃっ!]
少年は、可愛い悲鳴を上げながら、どつかれた後頭部をさする。
[いたいよ! 大体コブつくってるとこをわざわざ叩くこたないだろが!]
少年は少し涙目になりながらも悪態を付いた。
大きなコブをつくったというのは昨晩遅く、苦労の末やっと宿に辿り着いた兄が、安穏と眠っている弟への腹いせに思い切り殴った、という経緯がある。もっともこれは弟――ジルが主な原因をつくっていたわけであるが。
「くっそう……ディエル兄ちゃんの馬鹿野郎」
そうは言いながらも少年ジルは、再び固まりの中に入っていこうとする……が、その甲斐もなく、再び押し出された。
そのまま後ろ足でふらつくジル。こつんと、 背中に何か堅いものが当たって、しりもちを付いた。それは人の脚。見上げると、端整な顔立ちの若者が立っていた。
しばし見つめ合う二人。
[なんだよ兄ちゃんは? ……いてっ]
[男に見えるってぇ? 私が……!]
ジルを軽くこづいた若者は、腰に手を当ていささか機嫌悪そうに言った。
ジルはズボンの埃を払い、起き上がるとまじまじと若者を見た。服装から見るに、華奢な美少年と言えなくもない。だがその顔立ちと艶やかな髪は女性のそれであり、何より胸の膨らみが明らかに女性を主張していた。ジルは目をしばたかせ、そして一言。
[姉ちゃん。も少し女らしく振る舞わないと、お嫁のもらい手無くなるよ?]
ごんっ
一瞬後。鈍い音がした。
[いっっってえ!]
ジルは頭に二つ目の小さなコブをつくる羽目になった。
[なんだよう?! 子供の可愛い冗談じゃないかよう]
[人が気にしていることを、ざぐりとえぐるからだ]
黒髪の女性は、ぶっきらぼうに言い放つ。
[しかし……この人混みはなんだというんだ?]
[なんだ、姉ちゃん知らないのか? 昨日の夜、ここで大事件があったんだぜ? なんたって、得体の知れない化けもんが倒されたってんだからなぁ!]
ジルは、まるで自分が倒したとでも言うように、胸を張って威張った。実は兄の為したことだというのに。
[で、それを見ようとこの人だまりか。坊やも見に来たのか?]
彼女は、幾分柔らかな口調でジルに語る。
[坊やだぁ? おいらはジルって名前があるんだ!]
[そう、すまなかったね、ジル]
彼女は膝をかがめ、目の高さをジルに合わすと、先ほど自分が叩いた頭をなでた。
[私はサイファ。ジルも化け物を見に来たの?]
[そうなんだ。でもさ、大人って頭堅いんだよね。『子供の見るもんじゃない』とか言って見せてくれないんだ!]
サイファは破顔した。ジルが口をとがらせて文句を言う姿があまりに可愛かったからだ。
[そう……見たいのか?]
サイファはそう言って顔を突きだし、ジルとの顔の距離をいっそう近くした。ジルは照れて、顔をほのかに赤くしたが、次の瞬間には目をきらきらと輝かせた。
[見せてくれるの?]
サイファはうなずいた。
[男っぽいだの、嫁のもらい手がないだの、金輪際言わないと誓うならね]
そうは言っても、どうしても口調が男っぽくなってしまうのに気付く。性分だから仕方ないのだが。
[へっ……。そんなこと言わないさ。うん、イシールキアにかけて言わないよ!]
[いしー……なんだって? よく分からないが……まあいい。ほら]
サイファは体をさらにかがめると、ジルに催促した。
[え、何?]
[肩車してあげるから、乗りなさい]
[いいの?]
[見たいんだろう]
[う……うん]
[ちょっと、ごめんよ]
サイファは少しでも見えるようにと、人混みをかき分け前に進んだ。とは言え、サイファの背丈では前方の男達の背中の隙間から、かいま見るのがやっとである。
人の列が少し動いた。その時、彼女は一瞬だけ“それ”を見た。人と獣と爬虫類の様相を併せ持ったような、おぞましい化け物の死骸を。
[うわ……]
サイファの頭の上からのジルの声も、言葉に詰まり、何を言ったらいいのか分からない様子だ。
『化け物』と呼ばれている真っ黒なそれは、頭と思われる部分を粉砕され、地面にその巨躯を横たわらせていた。異形の身体はすでに朽ちかけていたが、死体が発するであろう臭気が一切しなかったのが、かえって不気味であった。
目の前の化け物は〈いきもの〉ではない。“太古の力”の尖兵たる魔物だ。そのことを知っている人間は、この閉じた世界フェル・アルムに存在しない。
[うっ……]
サイファはその骸の異形さに吐き気を催し、顔を背けた。
ジルは表情も変えず、化け物を見つめて一言。
「兄ちゃん……倒すにしても、もっときれいに倒しといてくれよな……」