フェル・アルム刻記
§ 第七章 〈帳〉
一.
ルード達はルシェン街道からはずれ、とうとう“遙けき野”と呼ばれる広大な大地に足を踏み入れた。
街道周辺で寝泊まりを繰り返すうちに、ハーンの身体も次第に癒え、再び軽口を叩きながら一行を先導出来るまでになった。ハーンの負担をなるべく減らすべく、ルードとライカが協力したことがハーンの回復に繋がった。ハーンに任せっきりだった夜の見張りなども、二人が代わって行うようになった。また、ルードもこういうことの積み重ねによって、ライカとより親しく接するようになり、嬉しく思うのだった。
ライカもこの世界に慣れたのか、はたまたルードを想い、目一杯の信頼を置くようになったためか、彼女本来の気性を現してきた。それはお転婆とも言える快活なものだったが、時折みせる神妙さと相まって、ルードはますます彼女に惹かれていくのだった。
傷の癒えたハーンは、あからさまにお互いを意識しあう二人に対し、冗談を交えて冷やかすのだった。二人が夜の見張りをしている時にこっそりと起きだして、茶化したこともあったが、さすがにこの時ばかりは二人から怒られた。
道なき荒野をさまようのは、彼らの肉体的にはさほど苦痛でもなかった。方角は太陽や、夜の星々が示してくれた。
問題となったのは食料だった。何せ、クロンの宿りを大急ぎで飛び出してきたものだから、ろくな蓄えがなかったのだ。ただ幸運なことに、痩せこけた大地と言われていた“遙けき野”においても、緑に生い茂った地は存在し、一行はそこで丸一日を過ごして食料と水を補充したのだった。
そうこうしている間に広野の中でまるまる七日が過ぎ、彼らにも疲れがみえてきた。ルードも手綱を握りながらうとうととすることがたびたびあり、ライカに代わってもらうことも多くなった。旅慣れたハーンですら眠気に耐えようとしている。しかし食糧の問題から、休み休み旅を行うことも出来なかった。
日を経るに従い、倦怠感に包まれた彼らは次第に無口になっていった。赤い土で覆われた荒野。乾燥し、痩せこけた荒涼とした大地。緑に囲まれながら日々の暮らしを送ってきたルードとライカにとってそれは、あまりにも見慣れないものであった。彼らは時折、背後に小さく映るスティン山地を、懐かしむ目で見るのだった。
そして八日目。
ハーンはそろそろ到着してもいい頃だ、と言う。だが、周囲に広がるのは一面の荒野のみ。建物と呼べるようなものなど見あたらない。ハーンは疲れながらも術を行使し、視覚を遠くまでとばしたりしたものの、彼がかつて過ごした家、館とまで言えるような大きな建造物はついぞ見つからなかった。そんな時、ハーンは肩をすくめるようにしておどけてみせた。とにかく進むしかない。
「……あら?」
変化に気付いたのはライカだった。彼女は馬を止めると目を閉じ、意識を集中させた。それにならうように、ハーンも馬の歩みを止めた。
「……どうしたのさ?」
ライカの背中ごしにルードが言った。
「……ごめん。ちょっと黙ってて。風が――」
振り返らずライカは言う。ルードはハーンのほうを見た。ハーンは何も感じていないようだ。
「そう。風の様子が変。今まで常に流れていた風の力が、ここでは止まっているのよ。それも、かなり長いこと……」
「ふうん。どういうことだい?」と、ハーン。
「風の流れが異質なのよ。まるでこの場所では時間が流れてないような、そんな感じで。アイバーフィンとしての知識で言えば、これは自然じゃないわ。いくらフェル・アルムがアリューザ・ガルドと異なる世界だとしても、今までは全て自然の理《ことわり》どおりだったもの。この感じは……そう! 誰かが意図的に作り上げたとしか思えないわ!」
ライカは目を閉じたまま、答える。
「……てことはさ、大賢人の家はここら辺にあるのか?」
ルードの顔がにわかに明るくなった。
ハーンは周囲を見渡し、“遠見の術”を再び使う。
「うーん。結界かな? 外見ではなんにもないけど、〈帳〉の家はここにあるのかあ……」
彼の言うように、周囲にはまるでそれらしいものはない。ルードは馬から下りた。
その途端、ルードの足下から、何か異質なものが理解不可能な言葉で囁いてくるような、妙な錯覚にとらわれた。ルードははっとして足下を見たが、そこにはただ赤茶けた土があるのみ。今までと変わらないようにみえたのだが――。
(なんだこれ……変だ。……でも、よく分からない……)
ルードは不可思議な感覚に戸惑った。
「確かに……どこか違う気もする……」
「どうかしたの、ルード?」
集中を解いたライカが、ルードを後ろから見つめる。
「ああ。なんて言うか……感じが変なんだ。地面に立って気付いたんだけど、何かが……うまく言えないけれども、ここは違うんだよ」
「ルードもそう感じるのか。悔しいけど僕にはよく分からないなぁ。でも、おそらく〈帳〉がこのあたりにいて、目をくらますために結界を張っているんじゃないかっていうのは確かかもね。そういえば十三年前、〈帳〉の家を後にした時も、彼は目をつぶるように言ってたっけ。あれが結界だったのか」
ハーンはそう言うと馬からひらりと下りた。ライカもそれに続く。
「しかし、たいしたもんだね、ルードも。ガザ・ルイアートから土の力を得るなんてさぁ」
「なんだよ、それは?」
「つまりさ、君に大地の意思が伝わるようになったってことさ。ルードの力は目覚めたばっかりだから、大地が何を語らんとしているのか、君には分からないみたいだけど、ライカが風の力に敏感なように、そのうち君もくみ取れるようになるんじゃないかな?」
「まあいいや。それより、ここが〈帳〉のいるところだとして、どうするんだ?」
ルードは顔を上げた。
「ハーンだったら術で結界を解けるんじゃないかしら?」
ライカは言うが、ハーンは首を横に振った。
「いやあ、無理無理。ライカとルードがいなけりゃあ、結界が張られていること自体分からなかったもの。ただでさえ結界を解くのは非常に難しいのに、こんな高位の結界じゃあ、僕の力では無理だよ。さすがは〈帳〉。“礎《いしずえ》の操者”、“最も聡き呪紋《じゅもん》使い”と呼ばれただけのことはあるね」
「はあ。しかし、どうするさ? ここまで来て『結界で通れませんでした』って引き返すわけにだっていかないだろうに?」
ルードは岩の上に腰掛け、一息ついた。
「大賢人様は、結界の内側からこっちがわの様子が分からないものかしらねぇ?」
ライカもルードの隣に座り込み、疲れを癒やすかのように大きくのびをした。
ハーンはぐるりと辺りを見回し、やがて意を決したかのように大きく息を吸い込み、
「大賢人様ぁー! 〈帳〉さあーん! 私はティアー・ハーンです! 館に入れてもらえないものでしょうかー!」
と、ハーンは張りのある大声を出し、岩に腰掛けた。
「……ふう。これでなんかしらの応答がありゃあいいんだけどね。ま、気長に待つとしようよ。僕らの目的地はここなんだから、後は〈帳〉のほうが門を開けてくれるのを待つとしないか?」