フェル・アルム刻記
疾風は急に、ルードとライカのほうを向いた。その眼光は鷹のような鋭さを持っていた。
「……!!」
空気が、止まる。
ルードの心臓が一度、大きな音を立てた。
疾風が大声で言い放つ。
[小僧ども! このニーヴルの男を処分したあと、すぐ貴様らも消してくれる。こいつのことを人心を惑わすニーヴルと知って旅を続けているのなら、なおさらな!]
[そんなこと、させやしない!]
ハーンが立ち上がり、駆け寄る。疾風に向けて剣をなぎ払った。刃が銀色の帯とともに、唸る。疾風はそれを軽くよけると、再びハーンのほうに向き直り、剣を構えた。
そして、剣の応酬が始まった。
幾度も剣を超人的な速さで合わせ、そのたびに火花が散った。かと思えば、お互い牽制しあい、相手の隙を誘う。力技のみで戦う場面、冷静かつ理論的に攻撃を組み立てていく場面、意表を突いて足払いなどの体技を仕掛ける場面など、彼らの戦いは刻々と変化していった。
ルードは自分の立場すらも忘れ、この戦いに見入っていた。彼にとって実戦を見るのが初めてである上、この戦いは剣の達人同士の死闘なのだ。お互い躊躇することなく相手を倒すことだけを考えている。この情景を目の当たりにして、ほかのことが考えられるわけがなかった。
渦巻く殺気を常にぶつける疾風。
対するハーンはそれを受け流すがごとく、落ち着いた表情をしている。笑みをみせてもおかしくないほど、余裕のていであった。ハーンのほうが相手より一枚上手のようにみえる。疾風の動きをほぼ読み、追いつめられるそぶりも無い彼は、剣技大会で毎回優勝していてもおかしくない。細身の身体から繰り出される技は、それはとても信じがたいものであった。
「ハーン、勝つわよね?」
ルードの後ろでライカが話しかけてきた。そして不安げに、彼女の指がルードの握りしめた拳に触れる。
「え? ああ。……うん、そうだな、……大丈夫、勝つさ」
我に返ったルードはそう言ってライカの手を握る。ルードとライカはお互いを感じることで、不安を少しでも取り除こうとしたのだ。
しかし――ルードは見逃していなかった。ハーンの服に滲む血の朱が、徐々にではあるが大きくなっていくのを。先ほどの刺客の体当たりで、傷口が大きく開いてしまったのだろう。加えて、村に戻る時に遭遇した化け物との戦いで、ハーンは胴を痛めているはずだ。
(長引くと……まずいぜ……ハーン!)
言葉には出さなかった。ライカを不安にさせるわけにはいかなかったから。しかしルード自身、恐怖の念に襲われ、彼はせめて、ライカの手を強く握りしめた。
疾風は分かっているのだろう、勝機が見えてきたことを。
ハーンの攻撃がいっそう激しさを増す。何回か疾風を追いつめるものの、そのたびに疾風も窮地をくぐり抜けていた。ハーンの顔からは以前のようなゆとりが消え失せている。
対する疾風は、疲れの表情などまるで見せない。術の直撃を受け、さらに剣の傷を何カ所もつくっているというのにも関わらず。彼は痛みを感じないのだろうか、いや、死すら恐れていないのかも知れない。
「ああっ!!」
ルードと、ライカは一斉に驚きの声をあげた。
ハーンの剣が弾かれてしまったのだ。剣はハーンの手の届かない場所にまで飛ばされた。ハーンは一瞬戸惑ったが、術を行使しようとした。彼の右手が白く光ったその刹那、ハーンは疾風の体当たりをくらい、吹き飛ばされた。
[勝機!]
「ラ、ライカ!?」
「ハーン!」
三人の声が奇妙に重なる。
疾風はハーンにとどめを刺さんと駆け寄る。
ライカは――彼女の行動は予想外だった。彼女はルードの前に躍り出て何やらつぶやくと、両手を前にかざしたのだ。
「ライカ!!」
ルードは知っていた。彼女の姿勢が何を意味するのかを。
次の瞬間突風が起き――
[うおおっ!!]
標的に命中した!
ライカの起こしたかまいたちが疾風を切り刻む。彼には避けようがなかった。鋭利な空気の刃は、ひゅんひゅんという鋭い音とともに彼に襲いかかり、そのたびに細い血の筋が、舞い上がった。
風がおさまった。
ゆらりと立ち上がった疾風の目には、もはやハーンは映っていなかった。彼はぎろりと、鋭い目でライカを睨みつけた。
ライカは殺気に飲まれ、動けなくなった。怯えているのがルードに伝わってくる。
[小娘がぁっ!]
疾風が吠える。
「あ……わたし……」
刺客の言葉は分からなくとも、ライカは震えあがった。
疾風は即座に懐に手をやると、ライカに向かって何かを投げつけた!
(短刀だ!)
短刀はきらりと光り、まっすぐライカを狙っている。当のライカは――やはり動けない!
ルードの想いが、一瞬にして一つにまとまった。
(俺に何が出来る?)
先ほど心の奥にうごめいていた、彼の純粋な想い。
それが今、もぞりと音を立て、心の表層に躍りでた。
(何が出来る……今!)
(……これしかない!)
ルードは何のためらいもなく、想いのままに行動した。
ざぐり――
それは瞬く間もないほど短い間の出来事だった。
ライカは知った。自分の前にルードが立ちはだかるのを。次に彼女は、 ルードの身体に当たる、鋭い音を聞いた。
ルードはしばらくそこに立っていたが、声もあげずに地面へと倒れ伏した。彼の胸に刺さっているのは――短刀だ!
「ル……、ルード!!」
我に返ったライカは悲痛な声で叫んだ。
ルードは身を呈してライカを凶刃から守った。それこそが、ルードに“出来ること”だったのだ――!
「ルード、ルード!」
ライカはルードの前にかがみ込む。
ルードは朦朧とした意識の中、胸に突き刺さった短刀を何とか自力で抜いていたが、あとはどうしようもなかった。暖かい血がどくどくと湧き出て、服を汚していくのが分かる。目の前には今にも泣きそうな面もちのライカの顔があった。
「ルード、ねえルード! しっかりしてよぉ!」
ライカはルードの頭を抱き抱え、涙をこぼしはじめた。ルードは自分もまた泣いているのに気がついた。
(そうか……俺、もうすぐ死んじまうんだ……)
死が、鮮明に感じられた。だが恐れはない。
(今、ライカを守れなかったら、それこそ後悔するだろう……)
(そうだ、これでいいんだよ……)
(これでよかったんだ……)